動機

2017年3月15日(水)

普段の練習で最悪なピアノを使い、本番でいつもと違う良いピアノに当たってテンションを高めたい。

ということをおっしゃった方がいる。というレポートを読んだ。

最悪の環境でといえば、蒔きを背負い仕事をしながらも読書をし大成した人物の話も、事故によるハンディが身体にあり、かつ貧困の中でも勉学に勤しみ、ノーベル生理学・医学賞の候補に数回上がるという素晴らしい人物の話も子供の頃本で読んだ。

本人に確固たる動機があり信念があれば、与えられた環境を克服し、あるレベルの知識を得ることは可能である。というイメージは自分もできる。

しかし一方、科学系の新しい理論の発見だったら机上ですべてのことを解決させるのは困難で、発見のためにはいろんな実験をするということも見聞している。

音楽、ピアノの演奏の場合はどうだろう?

頭の中にすでにピアノの響きのイメージが出来上がっていれば、紙鍵盤の上に指をおけば、自分のイメージする音が頭の中で鳴るはずである。そういう脳の状態になっていれば、たとえ、ピアノの鍵盤が動かずとも、弦が切れていても今のタッチはダメだった、自分の思っている音は出ていない!というイメージができるという話を、複数の優秀なピアニストから聞いたことがある。

一方、例えばベートーベンは、ピアノの個性そのものにインスピレーションを受け、曲を書いたのだろう、と考えられる場面が多い。

彼が、楽譜に書いたことを、何も考えずそのまま現代のピアノで演奏すると、退屈に感じてしまう部分もあれば、美しい響きを得られない場合もあるくらいだ。

モーツアルトの調性のチョイス、転調は不等分律があってこそしっくり腑に落ちる。

楽曲を創造した人たちは楽器の響きや個性から何らかの動機を得て、頭の中で音を組み立て曲の工夫に至っている、と感じる部分があることから、自らのアイデアで響きを作り、その中に旋律の筆を走らせるという創造は、やはり響きの絵画をイメージできる楽器を熟知していなければアイデアに行き着きようがないのではないか、と思う。

そもそも、自らのアイデアで響きを造る、という発想があるのだろうか?

さらに問えば、何のためにその方はピアノを弾くのだろう?

普段の練習で最悪なピアノを使い、練習は楽しいのだろうか?

楽しむために音楽があり、さらに知的な趣味として演奏があるのではないだろうか?

練習が楽しければ新たなアイデアも湧くだろうし、練習をすることが許されないような境遇になったとしても、美しい絵画を鑑賞してみようと心が欲することがあるよう、なんとかピアノに向かいたい、という動機が生まれるのでないだろうか。

ストイックである必要がないところで、トレーニングの精神のみで鍵盤と格闘し、人前の演奏(その方の言う本番)で、自分が納得でき、そして人が感動する響きの絵が描けるのだろうか?

考えれば考えるほど、その価値観に非常に大きな違和感を覚えてしまう。