社長のブログNo.22 上高地

2013年8月10日(土)


2年ぶりに上高地へ。今回は、OB諸兄と会えると思うと、心が弾む。
しかし、途中のバスの揺れが拙かったのか家内に高血圧が出て「上高地温泉ホテル」に滞在するだけの3日間となった。
8月7日の1日前に帝国ホテルの辺りに“くま”が出たという。日本では野生のサルもイノシシも鹿も民家付近に出てきて庶民はその被害にあう。森林の国ドイツにはない。日本の場合、動物保護の観点からか、人は何も出来ない。ただ、追い払うだけである。知恵の無さを哂いたい。
私の住んでいたドイツはどうしているかというと、1ヘクタールの森林に、野生のシカや、イノシシは何頭生きられるかが全ての地域に統計上の数字が出来ている。それぞれの動物がそれ以上自然に増えた場合、地区担当の猟師が殺すことになっている。殺さなければいけない。その数を数えるために、冬の極寒時の深夜に、えさを求めて草原に出てくる動物を、見張り小屋のような櫓のうえから、えさを撒いて数える。自然と人間が共生できている図である。その地区の許可を得ている猟師の義務である。

 

今年は、東京の家の庭で大事にしている“ブルーベリー”の実が数羽の鳥に見つかってしまい、殆ど食べられてしまった。“ブルーベリー”は結構永く実をつけるし、意外に沢山取れる。毎年、楽しみにしていた。

 

さて、今、8月20日はドイツの自宅、(デュツセルドルフ)に来ている。マンションの前には、“さくらんぼ”と“りんご”が自然になっている。誰でも食べていいいのだが、あまり食べない。特に“さくらんぼ”は樹からもぎ取ってそのまま食べる味は、なんとも言えない。
鳥は沢山来るのだが、“さくらんぼ”も沢山あり、食べきれない。鳥が一口つついて、又他の実をつついて、食べ散らかしている。そこに、いろんな種類の“蜂”が来ている。崩れた食べかけの“さくらんぼ”は、蜂にとっては実に「蜜」を吸い易いということなのだ。
大小の蜂をなんとなく手で追い払い僕は食べるのだ。

 

又、東京の家の話し。
ウチの小さな庭に毎年夜になると“いぼがえる”が出てくる。昨年、私が手で捕まえて、4~5分で放した。そうしたら、今年は今まで出てこない。家内はよく“かえる”に話しかけていた。「今日は暑かったわねー!水を掛けてあげるわね!」すると、“かえる”は、ジーッと大きな眼で瞬きもせずに聞いている。水を替えるとのそのそと逃げ出す。
“かえる”が来ないので、最近は“トカゲ”に話しかけている。ウチの家内は特別に動物の気持ちが分るのか、“トカゲ”は逃げない。「尻尾、どうしたの?切れて痛かった?」「アラ、少し伸びてきたわねー!」

 

こういう自然を目の当たりにすると、心が和むし、何かしら生きていることが楽しい。
日本も、調査結果により野生の動物を殺すか、観光開発と称する森林を減らすことを規制しないと、人の住む楽園ではなくなってしまう。その悪い見本は「中国」でこれは国家の犯罪である。

 

もうひと言付け加えようか。
ドイツでは自宅の庭に生えている樹で、地上1mのところで樹周を計り、80cm以上の樹は切ってはいけない。どうしても切るときは、その敷地内に代替の樹3本を植えなくてはならない。代替の樹は、樹周20cm以上である。その場所がない人は、市が公園などに3本分の樹を植樹する。その樹の代金と植える作業代も納めなければならない。これは市町村の条例である。黙って切ると、隣近所の人が役所などに言いつける。
80cm以上に育った樹は、もはや個人の所有物ではなく、人類共通の財産である、という考え方である。
これは「文明論」でもあり、福沢諭吉先生の言いたかったことの一つの例でもある。

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