ドイツのピアノメーカーの日本総代理店に籍を置く立場という事もあり、柄にもなく研修会の講師をすることがしばしばある。
今週は倉敷まで出向き、山陽地区のピアノ調律師協会主催によるベヒシュタインの技術セミナーの講師をさせていただいた。
今回は主催側の希望で、整調という鍵盤やアクション部分の寸法などを整え、主にタッチ感を調整する作業についての内容を中心に行った。
しかし、ピアノのメーカーによる寸法等の違いのみを解説しても、本質的な意味を成さないことを過去何度も経験している。
夫々の作業の構築が意味する事がベヒシュタインの場合は何処にあるのかを、参加してくださった方夫々が咀嚼することを研修の目的にしたく、ピアニストとの音楽的な対話もプログラムに入れた研修会を希望し、今回はそれを実現していただいた。
音楽的な表現の可能性をピアニストがどう感じているのか、をピアニストと共に感じると、与えられた楽器の調理のベクトルが定まってくる。そこには、絶対数値は無く、様々な相対性から導かれる出口なりを見付る事ができる。と自分は考えている。
しかし、ピアノという楽器が手工業と量産の狭間に位置するので、規格化•標準化の中で夫々の技術者が刷り込まれた感覚からの違和感に阻害され、芸術的表現への整合性に考えを至らせられない状況としばしば対峙してしまう。
ファジーな部分があるから、感じて、考えないとならないからこそ面白い。
意味なくマニュアルに整合させる発想こそ、楽器を退屈な物に変えてしまう悪因の一つだと思う。
ピアニストは、楽譜に書いてある事を様々な角度から読み取り、表現の可能性を探っている。
表現に多様性があるからこそ退屈しない。