ピアニスト宅での調律後の音楽の話はいつも新たな刺激を受ける。
一昨日の国立市のH先生宅では、ピアノの音色の違い・表現の可能性の違いから始まった話が、曲の解釈にまでおよび、いろんなヨーロッパの出版社の同じ楽曲の違う楽譜を見比べ、楽譜による解釈の違いに発展していった。
自分の中で驚きであった事が、絶対同じだと思っていた原典版 (Urtext) にも解釈が様々ある部分があったり、同じ出版社の原典版でも、出版年度によって表記の違いがある事だった。
原典版は、作曲をした音楽家が書いたままだと考えていたわけだが、オリジナルの書き方が非常にファジーであったり、和声上あり得ない旋律の上下降があったりすると、その編集に携わった学者やピアニストの考えで、ある程度差異が出るという事だった。
特にショパンの書いたファクシミリと、パデルフスキー版の見比べは、楽譜を即音楽に解せない自分にも、スラーの表記解釈について興味深い解説をしてくださった。
年代によりベートーベンのソナタでは、fとpが反転していたり(ヘンレ版で但し書きがしてある)、シューマン楽曲の一部だが、スラーの中にコンマで区切られていたり(これは原典版でないが、オリジナル譜を尊重してスラーを書いているが、トニカ、ドミナントと和声を考えると、どうしてもそこをスラーでつなげる事はおかしいからということで、監修者がコンマをうった←たしかに聞いてみるとその方が自然に聞こえる)いろいろあるのだ。
結局のところ、作曲上のルールが理解できている事を前提にし、その上で、”作曲者が本来のルールを尊重しつつ、ただ全体を歌うようにつなげたい場合どのように楽譜に書き表すだろうか?” ”作曲上、和声上のルールからすれば、もしかしたら単純に書き損じではないのか?”
等、音楽そのものの理解(作曲)と、響きの進行を聞く力、が直接話をする事ができない作者の曲を表現するピアニストには必然ではないか。。。という事で話は着地した。
ピアニストという職業はクララから始まったと聞くが、ロベルトとクララは曲の表現について会話があった筈だし、それ以前は、作曲者自身がピアノを演奏していた事を考えれば、楽譜を読む場合の前提には、和声などの作曲のルールの理解があったことが考えられないだろうか。
演奏家としての責任に、作者の意図を如何に読み取り聴衆に披露するか、という事があるのだろうと思うと、人を感動させられるピアニストの頭の良さに、改めて敬服させられた。
僕も楽譜を読み取り、理解できるようになってみたい。。。
良い音楽をたくさん聴きたい。