先日も響きの記憶の扉を開いてくれた出来事があった。
以前もブログに書いた事があるが、匂いの記憶や味の記憶から関連した出来事が思い起こされるように、響きが記憶の扉を開く引き金を引いてくれることが僕には稀にある。
先日、巡り巡って調律のご依頼を受け伺う事になったピアノは、1889年製のベヒシュタインだった。1889年と言えば、ブラームスがエジソンが発明したシリンダー型蓄音機で初の実験録音をした歴史的にも重要な年のようだ。その年に製造されたベヒシュタインと言う事だけでも時代を結ぶ架け橋に対面しているようで、心が震える感じではないか。
さて、今回調律のご依頼をうけるに至った1889年製のピアノは、十年程前に所有者の日本への引越をきっかけに海を渡ってやってきた。そして、ドイツで所有なさっていた方の知人にピアノは譲られ、自分もよく知っているピアノ技術者によって修復されたという事だった。
なのにその修復内容をポジティブに評価しない数人のピアノ技術者がいたと言う事で、それらの発言内容と今のピアノから奏でられる響きに、どうにも不安になってしまった所有者が悩んだ末、一度状態を見て調律・調整をしてもらえないかという連絡を下さった。
訪問しその状態を見ると、その修理は当時の趣を壊す事無く、オリジナルを尊重し慎重に響板の修復が施されていた。そして、弦等の消耗品だけが上手に丁寧に交換されていた。
しかし、環境の変化でピアノの木材が動き、単純に理想的な調整になっていない事と、その当時の響きのイメージを完全に無視したオーバーホール後に行なわれた整音が、ピアノの響きを叫びに変えてしまっているようだった。。。
この楽器の状態なら大丈夫だ、という信念をもって、自分がいつも行なっているように調整し整音し直した。
実は、僕はこのピアノには今から丁度25年前ドイツHilden市で何度も出会っていた。
そのピアノではその後、幼稚園に通うようになった上の娘が初めてのピアノのレッスンを受けていた。そんな事もあり当時何度かこのピアノの調律もさせていただいていた。
整音が終わりピアノの音を鳴らしてみた。すると、当時のピアノが置いてあった空間そのものの記憶が呼び起こされた。
外装は今回のオーバーホールで綺麗にされたので、ぱっとした見た目は同じピアノだと確信できない程に異なっていたが、響きの仕上がりと記憶のフォーカスの整合を体感できたのがすこし不思議な経験だった。
そのリビングでは音楽を聴いてみたり食事を一緒にしたり、月に何日も遊びにいかせてもらった事もあった。
そんな懐かしい記憶をそのピアノの響きは呼び起こしてくれた。
昔の記憶をたぐり寄せると、その前の時代への路を示してくれるような体験。いつも、そんな気持ちで楽器に向き合っていたい。