個性

2014年3月15日(土)

国際ピアノコンクールに初めてベヒシュタインを参加させた。ヨーロッパで行なわれているコンクールは、ベヒシュタインを使用している会場は勿論ある。日本でも国内のコンクールにはベヒシュタインを使用している事はあるが、日本での国際コンクールと言う意味で初めてのエントリーだった。
運び入れた楽器が温度差でなかなか安定してくれない状況の中、調律の順番をくじ引きで決めたり、調律の待ち時間ができてしまったり、馴れない事の連続だった。

高松国際ピアノコンクール

そう言う意味で自分にとって初めての体験が多く、ピアノの選定や演奏からも感じる事も多くあり色んな意味で勉強になった。

先ず選定で:特定ブランドのみ試し、最初から興味を持たないブランドを素通りする参加者がいる
ベヒシュタインを弾こうともしない参加者がいた。その上、選定の時間一杯を自分の練習のみに利用しているように感じる人さえいたのは辛かった。
そう言う意味では他のメーカーさんも同じ思いをなさったのではないだろうか。
これは、コンクールで求めるところの基準が何処にあるか。を目の前で示されているかのようにも感じさせられ、非常に心が痛んだ。
全員が試したメーカーは言わずと知れている。
と言う事は、そこを基準にした判断を殆ど全員がしていると言う事になる。

では、ベヒシュタインをもっと更にそれに近づけるべきだろうか?

僕はこれを見ていて「違う」という気持ちが更に深くなった。
なぜなら音楽はスポーツではないと思うから。個性的なものが尊重されるべきだと思うから。

例えば、ショパンの生きていた時代のプレイエルの演奏では旋律の絡みや内声の美しさなど、ショパンが恐らく描いたであろう音楽の美しさ、心の内面の動きのようにも感じる響きの変化を聴く事ができる。これはモダンピアノでも表現できる筈だと自分は思う。

では、スピーディーなパッセージだけを弾き比べで、音楽的な様々な可能性の違いを理解できるのだろうか?
短い試弾時間でその楽器のもつ音楽的なadvantageを見出す事ができるのだろうか?
多分それは難しいのではないだろうか。と言う事は、基準以外の楽器を演奏する参加者は、事前にその楽器のもつpotentiality を理解していなければならないのでは無いだろうか。

なぜなら、うやむやな気持ちでいつもと違う個性の上で表現する事はとてつもない冒険になるから。

高松国際ピアノコンクール

これが、選定での感想だ。

予選での感想
他社のピアノを演奏した人を敢えて取り上げたいが、僕が心から感動した演奏をした2名の参加者が両名とも一次予選で落とされていた。

一人は中国の男性だった。彼はBachとChopinの他にDebussyを二曲弾いたが、特に彼のDebussyには心を打たれた。
彼が演奏した中の同じ曲“喜びの島”を、非常にespressivoな表現で演奏したロシア人の女性がいた。それはパワフルで凄かった。が、自分は心が揺れるような感動はどういう訳か無かった。しかし、中国の男性が奏でた音楽は僕の心にある情景と一致し、曲に心が吸い寄せられ、演奏を聴いて涙が出てきた。

もう一人は日本人の女性。彼女の演奏は、Bachの平均律ではポリフォニックな感じが人の声のように感じられた。Chopinのエチュード1番も技巧的な印象より音楽的な印象として心に届いた。何よりもRavelのスカルボは凄かった。隣に座っていた人と目を思わず合わせてしまう程だった。(隣の人はたまたまピアノの先生だったが、その方も心から感動していらっしゃったようだ)

これは自分の感覚がおかしい。と言う事になるのだろうか?
それとも何処かにしてはならない大きな音楽的なミスがあったのだろうか?そもそも音楽的なミスとは何だろう?

今回ベヒシュタインを選んで下さった男性の参加者とは会場で始めて出会った人だった。
スクリヤビンは立体的で、どうしてベヒシュタインを選んでくれたのかを理解できる演奏だった。

彼の演奏に心から感謝したい。

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