回想

2009年8月13日(木)

あれからもう20年の歳月が流れたのか。
普段馬車馬のように動いているせいか、短いながらも休暇を取ると、心の中の森のような所に誘われる。
1989年から足掛け5年間ドイツで生活をしたが、その時ドイツに起こった大きな歴史の流れの中に身を置く事になった。その時の経験を綴った記録を国立音楽大学の国立楽器技術研究会 (KGK) の会報No.34,35に当時投稿した事を思い出し、丁度節目の年でもあるのでこのブログに転記してみる。

ドイツにて

1989年6月3日、アムステルダム経由デュッセルドルフ行きの飛行機で成田を後にしてから1年と少しが過ぎた。この短い間に世界は全く予想もしなかった変化を遂げ、そしていま僕は、その代名詞ともなった感のある”壁崩壊”のドイツに住んでいる。僕は政治的な事に詳しくないので難しい話は書けないが、自分が感じたことをそのまま書いてみたいと思う。

僕のドイツでの生活はドイツ人老夫婦の元で下宿、という形で始まった。まず自分が海外生活に少し慣れてから家族をよぶべきだろうと考えたからだった。
「コンニチハ ワタシハ KATO デス ヨロシクオネガイシマス」
「シホンシュギノ ニッポンカラ キタノカ ワタシノ ステレオモ ニッポンセイダ ヨロシク」
という簡単な挨拶の後、ワインを飲みながら少々おしゃべりをしたのだが、時差がまだ身体に残っていた僕は、かなり早い時間ではあったが自分の部屋に引き上げさせてもらった。

翌朝もゆっくりと目を覚まし、朝食をとった後は近所の町を買い物がてらに歩き、ゆったりとした気分で下宿に戻ると、おじさんは僕の顔を見るなり言った。中国の天安門事件のことだった。

この事件を知った東ドイツの多くの人々は、中国大使館前で抗議のデモを行ったのだそうだ。そしてこれが、その後東ドイツ内で相次いで起こる民主化要求デモの口火を切る事件となったと言う。
しかしこのとき僕は、日本の隣の中国の惨事、としてニュースを見ており、その後これを発端としてヨーロッパでさまざまな事件が起きようとは、当然知るよしもなかった。

僕のドイツ生活も日を追うごとに少しずつ慣れ始めた。週2回、仕事の後にドイツ語の学校に通うようになり、そろそろ家族も呼ぼうかなと思い始めたのは、僕がきて2ヶ月ほどたった8月上旬ごろだった。
そのころニュースでは、ハンガリーがオーストリアとの国境を開いたため、ポーランドに住んでいる元ドイツ人の子孫や東ドイツの人々がハンガリー・オーストリア経由で西ドイツに大勢流れ込んでいる、ということが社会問題として大きく取り上げられていた。それを僕が身をもって感じたのがアパート探しだった。

ライニッシェ・ポストという新聞の土曜版にはアパート賃貸情報欄があり、僕はそれを見て貸主や不動産業者に電話をし始めたのだった。しかし、
「ワタシハ アパートヲ サガシテマス ニッポンジンデス」
A「モウ キマッタヨ」
B「コドモガイルノハ コマル」
C「ガイジンハ ダメダ」
D「モット ハヤク デンワシナサイ モウ10ニンノヒトガ デンワシテキタ」
といったやりとりが1ヶ月以上続いた。

同僚のドイツ人の話では、1年前の新聞の情報欄は”貸す”欄のほうが”求む”欄よりも多かったのにほんの1年で今は逆だ、ということだった。これは明らかに東ヨーロッパの人々の流入が原因だった。彼らに住居を貸した場合、国から大家に援助金がおりる、という風のうわさもちらりと聞き僕はますますあせった。

電話では間違いがあるといけないと思って、手紙を出してみたり、下宿先の大家さんにも先方に電話してもらったり、また一緒にいってもらったりしたがことごとくだめだった。

このアパートも東京と比べれば安い感じがするが(60 m2 630DM 日本円で6万円弱)、ドイツ人の話では少し前、すなわちハンガリーとオーストリアの国境解放よりも前のゾーリンゲン周辺では、この程度のアパートなら400DMから500DMくらいで確実にあったというのだ。ちなみに今の新聞には”求む”欄しか載っておらず、もともと西ドイツに住んでいて越したがっているドイツ人ですらアパートを見つけられないほどの状況になっている。東ヨーロッパの民主化のゆるやかな動きを、僕はこの時垣間見たような気がしていた。

そうして、11月9日。その日何気なくニュースを見ていた僕は目を疑った。ブランデンブルグ門のうえに人が乗っている。壁の上にも回りにも大勢の人、人、人・・・
壁がこわれたというのだ。この前年に僕はベルリンに行っていたのだが、そのときブランデンブルグ門はまわりを何人もの兵士が巡回していて、とても容易に近づけない厳しい雰囲気を漂わせていた。

東ドイツ内での民主化要求熱の高まりはもちろん知っていた。しかし今、テレビの映像を見ても瞬時には事態がのみ込めなかった。まさか起こり得ないと思っていたことをテレビは映していた。いったいこのあとどのように展開していくのだろう、と同僚のドイツ人たちも言っていた。

年が明けて90年4月。冬休暇のときは人々がベルリンに殺到するだろうと思われたので春まで待ち、復活祭の休暇を利用して僕らはベルリンへ行った。まだ東ドイツであるうちに、もう一度ベルリンへ行っておこうという訳だった。それから、これは完全にやじ馬的発想だが、壁を自分の手でひとかけら取ってきたいということ。もう1つはベヒシュタインの新しい工場も見学しておこう、などと自分なりに理由づけをして行ったのだが、やはりメインは何といっても”東”ベルリンであるうちに行っておきたい、ということだった。

壁をさがして、僕らはブランデンブルク門からチェックポイントチャーリー(西と東の検問所)まで歩いたのだが、この区間においては既に壁が90%程は撤去されており、自分の覚えていた景色とあまりの相違に驚いた。修理中だということも手伝ってはいたが、ブランデンブルク門ですらそれであると認識するまですこし時間が必要だった。

壁の破片をイヤリングやネックレスに加工して売っている人や、東ドイツ兵の帽子、勲章、そして東ドイツ国旗を売るトルコ人、また壁を自分で崩したい人のためにハンマーやバールをレンタルしている人などがわんさといて、ほんの半年前まで東西ヨーロッパのイデオロギーの象徴であった場所は、まさにカオスの様相を呈していた。またそこからあまり離れていない広場では、ポーランドから脱出してきたものの住む場所もなく、バスの中で寝泊まりしているというおびただしい数の人々が何千といるのも見かけ、ここでも東西の経済力の差を目の当たりにしてしまったような気がした。

翌日の夜は、東ベルリンのグランドホテルで食事をしたあと(ベヒシュタインの山内夫妻、会社同僚と)コーミッシェ・オーパーでウェーバーの”魔弾の射手”を見た。もし日本なら一夜のうちに”ン万円”という世界の話だが、まだ通貨同盟発足前だった4月は1西ドイツマルクに対し3東ドイツマルクで交換できたため、西側の1/3の料金ですべてまかなえた。こういうことは”東ドイツ”が無くなるとできなくなるので残念だなと、勝手なことを思ったりしてしまったが、その時すでに東ベルリン内で西ドイツマルクを使用する場合は1対1で行われ始めていたのだった。

4月の時点では6月とも7月とも言われていた通貨同盟は7月1日から行われることに決まった。社長らと計5人でマグデブルクという国境の小さな町へ出向いた6月30日は、お祭り騒ぎにでもなるのかな、などと日本的な感覚で思っていたが、予想に反していたって静かであった。多くの硬貨 (DM) が不足しており、それにともなうお釣りなどの混乱を心配していた。また公衆電話など硬貨によって作動する機械の切り替えに、まだしばらく時間がかかるということを訪問した先の人が言っていた。

東ドイツの人々にとってはいろいろな意味でこれから全く新しい世界が始まるわけで、うれしさよりはやはり不安感が隠しきれない様子だった。

1人につき、東ドイツマルク3,000Mまで1対1、それ以上は4対1という交換率での両替で通貨同盟は行われた。

翌朝、町へくり出した我々は、銀行の前の長蛇の列に出くわした。両替をしようと思っている人、また定期預金等のパンフレットをもらっている人々であった。今までは西側の銀行が存在しなかったため、金融などに関する知識を少しでも早く得たいということのようであった。

僕は東欧の小さな町にきたのは初めてだったが、その街並は何故かとても懐かしかったのである。ブリキの看板、木の電柱、家の前に積まれている石炭、たまに通る車の2サイクルエンジンの音、そのにおい、まだ舗装されていない道路など、街の色や静寂感はまるで僕らが子供のころ(20年前)の日本とそっくりだった。これらの街並もこれから急速に変貌していくことだろう。そう思いながら新しく建てられたばかりのドイツ銀行、ドレスナー銀行などを見たとき、僕は無性に寂しくなった。

人々の予測を遥かに上回る早さで統一の日はやってきた。10月2日から3日にかけてはどのテレビでもドイツ内のさまざまな都市からの中継を報じていた。その中のある番組ではベートベンの第9を生中継していた。ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団との合唱で、指揮はライプツィヒでの民主化デモで大きな功績があったとされているクルト・マズアであった。合唱団の中で戦争を経験したであろう1人の老人が、目から大きな涙をこぼしながら歌っていた。

10月3日、いよいよ統一 0時である。何度も何度も
「ドイツ トウイツ バンザイ」
と叫ぶ声が聞こえて来た。

世界の民主化の波とともに始まった僕のドイツ生活。歴史の歯車が動くのをすぐそばでじっと見ることができ、凄いときに凄いところにいるなとつくづく感じた1年だった。
今後このドイツがどのように変わっていくのか、しっかり見つめ続けていきたいと思っている。

(1990年秋 ドイツ ゾーリンゲン市にて 当時28歳)

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