【連載】ベヒシュタイン物語 ご紹介~推薦のことば・刊行によせて

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こんにちは。ユーロピアノ東京ショールーム店長の調律師向井です。

今回はある書籍についてご紹介いたします。

いま、このブログをご覧の方々はあまりご存じ無いかも知れませんが、1993年に弊社代表の戸塚が執筆し出版された“ベヒシュタイン物語~究極のピアノを求めて~”というベヒシュタインの紹介本があります。

出版から約20年経った今、既に絶版と言う事もあり今ではなかなか皆さんの目に触れる機会も無くなっている事、またベヒシュタインを知っていただく為にこれほど内容の濃い資料がなかなか無いという事もあり、このまま忘れ去られてしまうのは勿体ないと思いまして、著者であり弊社代表の戸塚の許可を得まして、この書籍の全内容をこのブログにて毎週連載していこうと思います。

 

注:なお、この書籍の記載内容は約20年前当時の情報を元に執筆しておりますので、現在の状況・製品仕様と異なる点も多々あります。予めご理解頂けますようお願い申し上げます。

 

それでは。

 

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Carl Bechstein

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推薦のことば-信頼できる楽器

 

ルドルフ・マイスター(ドイツ州立ハイデルベルグ・マンハイム音楽大学教授)※現 学長

 

今日の芸術的表現とは、その人の個性を表現する事です。従って、個性を育んだ芸術のみが人の心に感動を与える、と言えましょう。

この過去数世紀にわたり、認識され、形成されてきた芸術活動の本質が、昨今、残念ながら、時折忘れられつつあるように感じます。技術優先の時代では、機能することが大切で、長い目で見て、たとえ表現力を豊かにすることであっても、ミスがあれば認めてもらえません。演奏者が個性を表現したければ、当然、間違いをおかすリスクを負う訳で、大きな勇気を必要とすることになります。リスクを負わずに演奏すれば、非難される要因は少なくなりますが、単調で味気ないものになってしまいます。従って、規模の大小問わず、演奏の響きが予知できるならば、コンサートに行く気もしなくなります。特に、時間が大きな役割を占める芸術分野、例えば演劇・ダンス・音楽の場合には、個性的および即興的表現は、予知せぬリスクを負います。つまり、言ってしまったこと、あるいは演奏されたこと、もはや修正不可能となるわけです。

ピアニストは、演奏会において、予知せぬファクターを十分留意しておく必要があります。コンサートホールの音響効果が、前もって良く分からないことがあるばかりでなく、たとえリハーサルがなされた場合でも、実際に観客が入った時に、大きく変化してしまいます。そして、楽器そのものも、毎晩その状態が違います。ピアニストが、これらのリスクを少なくするために、自分が良く慣れ親しんだメーカーの、コンサートグランドで弾きたいと思うのは、よく理解できることでしょう。そして、異なった時代時代の表現上の変化、作曲家の個性、さらにコンサートホールの違いを考慮すれば、さらに望ましいことと言えます。もっとも、個性のない楽器は、演奏者にインスピレーションやファンタジーを起こさせるでしょうか。

芸術は、絶えず新たに構築されなければなりません。そして、あるピアニストの演奏が、常に可能な限り同じ条件で、同じようであるとしたら、それが、聴衆を魅了する力とはならないでしょう。私の場合は、異なった製作のコンセプトと、理想とする響きを持った、それぞれの製作者のピアノの差というものをとても重要と考えます。ですから、ハイデルベルク・マンハイム音大でのレッスンの際には、この違いを生徒に説明するために、レッスン室に、二台の違ったメーカーのピアノを置いています。一台は、もちろんベヒシュタインです。

ベルリン・フィルハーモニーでのデビュー演奏会に始まり、私は多くのベヒシュタイン・グランドを弾く機会がありましたが。これこそ最も信頼できる楽器だと確信しております。それはもちろん、ピアノ製作の上で、明らかに最高の技術に裏付けされているから、喜んでこのピアノを演奏したいと思っています。ベヒシュタインの日本総代理店の社長でおられる戸塚亮一氏より、過日、日本の演奏旅行の招待を受けましたが、大きな喜びをもってこの旅行を実施いたしました。演奏会とレッスンのそれは何よりも楽しいものでした。この旅行で、戸塚氏が30年にわたり楽器販売に携わり、その品質を見抜く鋭い眼を持った、専門家であることを認識させられました。

戸塚氏は本書によって、ピアノの製作コンセプトの多様性、およびその重要性を強調すると同時に、異なった楽器の品質を厳しく評価する目を養うことを助けるのだ、と私に説明しました。この意味から彼の作業に心から祝福したいと思うのです。

Herr Maister

 

 

刊行によせて-ピアニストの指先と都はるみの握りこぶし

 

樋口 兼次(拓殖大学教授)

 

ベルリンの壁の「打ち壊し」に向けてうねり始めたさ中のベルリンで、珠玉のベヒシュタイン・ピアノが蘇ったことはとても印象的な出来事だった。第二次世界大戦後30年にわたってアメリカのコングロマリット、ボールドウィン社の支配に甘んじていたベヒシュタインが、ベルリンの気鋭の企業家やクラフトマンたちの手に取り戻されたのだ。

1853年、ベルリンでピアノ工場を開いたカール・ベヒシュタインは、フランツ・リストの「嵐のような」奏法に耐え、かつ、色彩感のある音色、音域の格差のないオルタナティブな構造をもってハンス・フォン・ビューローのデリケートな表現も可能にするピアノを夢み、完成させた。そして、フランツ・リスト、アントン・ルビンシュタイン、クロード・ドビュッシーはじめ多くの天才たちをとりこにし、戦火がベルリンを見舞うまで絶大な賞賛を勝ち得たのである。「気品ある温かな音、精巧なアクションをもって色彩の変化を最高度に可能にする、ベヒシュタインは完璧な芸術である」と。

ベヒシュタインの音の美しさは、各音の響鳴の確かさと各音を独立して引き出す独自の構造に加えて、ピアニストの感情が指先を伝わって弦に反応する、機械と人間の際立った関係性に由来する。ピアニストの豊島裕子さんは「ベヒシュタインを弾くと指先がとろけるようだ」と語ったが、ピアニストは、指先で音を聴きながら弾くことによって、深い感情表現が可能になる。ここにベヒシュタインの豊かさがあり、再生の今日的意味がある。

暮れに都はるみの歌を観ていて、ふと気がついた。握りこぶしの先端から声を出している。声帯、全身の響鳴、こぶしの先端に至るアクションの見事な三位一体が色彩豊かな表現を生んでいる。彼女もこのほど再生した。

 

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日本フィルハーモニー交響楽団の第447回定期演奏会のプログラムに載せた私の拙いエッセイを紹介させていただいた。

 

 

さて、著者の戸塚氏とは大学時代からの交友があり、下手なピアノをしばしば聴かされ閉口したものである。

私も厄年を過ぎてから、自己流でピアノを習い、先日ピアノ愛好家の発表会でベヒシュタインを弾いた。演奏が上出来だったせいか、あるいは聴衆の耳が悪いのか、その後同種の発表会に賛助出演の声がかかるようになった。心の内で、戸塚氏よりはるかに上手くなったと、ほくそ笑んでいる。

氏は、ともかく学生時代からピアノを弾くことができたし、卒業して30年もの間ピアノを追い続けている。好きこそものの上手なれ、というが、戸塚氏は心底ピアノが好きなのだろう。大人向けにピアノメソードの開発と普及、日本ピアノ史家協会の設立と主宰、もちろんドイツの本社とヨコハマの子会社を往復する多忙な社長業をこなしている。氏はまた、まことにもって該博なる知識を有していて、それを周囲の友人に披露するのが昔から得意であった。ドイツの才能教育の成果か、はたまた氏の潜在能力がドイツで開花したのかは定かではないが、氏の活躍するドメインの広さには驚くほかない。

広島の安田女子短期大学における日独比較経営思想論、比較文化論、日独税務監査論の講座の評判はなかなかのものと聞く。長い実務のキャリアと生活経験の成果に違いない。経済、文化に関する論文も多数あり、モノ書きをやっている者からみても、羨むべき才能を発揮している。

「ベヒシュタイン物語」は、このような氏の長く、深いキャリアをもって、ヨーロッパの珠玉のピアノであるベヒシュタインの新鮮で面白いエピソードになった。

私は、この草稿を読みながら、どうしてもベヒシュタインが欲しいと思うようになった。暇をみつけては、日本製のカタカタしたピアノを弾いているのだが、ベヒシュタインならば私の心の中の「ショパン」がもっともっと華麗に歌い出すに違いないと確信するようになったのである。

ともかく、ピアノ愛好家のみならず、ピアニスト、音楽大学の教授、学生の諸氏に、一読をお勧めしたいと思う。

 

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次回は、目次・はじめに、をお届けします。