【連載】ベヒシュタイン物語 第一楽章 創立者カール・ベヒシュタイン

 3.《ピアノ作りの修業》

 

この姉の結婚が、カール・ベヒシュタインの生涯を決定しました。すでに年老いていたアグテは、カールの決心を促すように言いました。「おまえは、ピアノ作りをするべきだ。グライツのところに修業に行きなさい。」と。
義兄のもとでの修業は、1844年まで続きました。これは、非常にためになったのですが、義兄グライツは、酒癖が悪く、若いカールによくあたりちらしま した。カール・ベヒシュタインは、さらなる技術を求めて、夜間の職人養成学校に、並行して何週間か通っています。そして、日曜には、愛する家族、ディー ツェンドルフにいる母のもとに戻りました。
エアフルトのグライツのところでの修業の後、カール・ベヒシュタインは、技術習得の旅に出ました。最初はプレイエルのドレスデン工場でした。当時ドレスデ ンは、テューリンゲンのピアノ製作の中心だったのですが、カール・ベヒシュタインは、そこには、ほんの数年しかとどまりませんでした。1848年の初頭、 この熱心な若者は、ピローというピアノ工場に勤めるべく、ベルリンに来ています。ピローは、すぐに、この若者の職人としての優れた技術を見抜き、わずか 数ヶ月の後、小さな工場をまかせるまでになっています。
しかし、カールはこのベルリンにも、長くはいませんでした。
彼の希望は、フランスのピアノ製作を、よくその目で確かめるために、パリへいくことでした。当時、フランスのピアノは、世界一と言われていたのです。寝る 暇さえも惜しんで、フランス語を勉強し、1849年の秋には、念願の地、パリへ旅立っています。パリには、その後3年間滞在することになります。そこで は、有名なパペとクリーゲルシュタインのどちらで修業するか迷ったようですが、クリーゲルシュタインを選びました。
折しもパリでは、1821年にセバスティアン・エラール(1752~1831)が、いわゆるイギリス式のアクションに二重解放のレペティションを考案し て、好評を得ていました。これは、ハンマーが、打鍵後、すぐに次の打鍵に備えるために、ある方法で捕らえられるというものでした。そして、フランスのピアノは、新しい技術を積極的にとりいれることで、とても力強い音を出すことができたのです。今世紀最初のピアノ音楽は、ショパン、リスト、ビューローといっ た偉大なヴィルトーゾ・ピアニストからの、演奏技術の向上要求によって進歩してきました。カール・ベヒシュタインも、パリのクリーゲルシュタインでの修業 中に、どうすればよりヴォリュームのある大きな音がでる、アップライトピアノとグランドピアノを作れるか、ということを学び、ヴィルトーゾを満足させる音質と、それを維持するための秘密とは何か、ということを、そのたぐいまれなクラフトマンシップで、しっかりとつか んだのです。
1852年、ベヒシュタインは、ピローの工場の経営者として、ベルリンに戻ってきました。しかし、すぐにまた、数ヶ月間、パリに渡っています。ベヒシュタ インは、クリーゲルシュタインの工場長になっていたのです。そして、次にベルリンに帰って来た時には、もうピロー・ピアノ工場の経営者ではありませんでし た。ピローの工場のあったベーレンス通りは、すでに倉庫となっていました。

 

つづく
Kriegelstein_et_Plantade_ca_1840_700px_000Kriegelstein_pub1wクリーゲルシュタインのピアノ
次回は

 

4.《九か月かかった最初のピアノづくり》
をお送りします。
向井

注:この内容は1993年発行のベヒシュタイン物語(ユーロピアノ代表取締役 戸塚亮一著)より抜粋しております。なお、この書籍の記載内容は約20年前 当時の情報を元に執筆しておりますので、現在の状況・製品仕様と異なる点も多々あります。予めご理解頂けますようお願い申し上げます。