4.《九カ月かかった最初のピアノづくり》
1853年10月1日、新たなる一歩、ベヒシュタイン・ピアノ工場は、操業を開始しました。
カール・ベヒシュタインのユニークな生涯を、後世に伝える多くの逸話があります。多くの天賦の才能に恵まれたこの人物はまた、友情をとても大切にし、また、ピアノ作り対して精力的に行動しています。数年間で驚くほどの、そして世界中に認められるピアノのコンセプトを工夫し、有名な音楽家、ピアノのヴィルトーゾと親交を深めていきます。この社交的な一面が、彼の友人たちを刺激し、また、ベヒシュタインの行動自体をも思わぬ方向に導いていくことになります。特にその影響が大きかったのは、フランツ・リスト(1811~1886)とハンス・フォン・ビューロー(1830~1894)で、ベヒシュタインの作った楽器を世界中に広め、10年間に、クラフトマンシップに満ちあふれた、このドイツ製のピアノの地位を著しく高めることになります。
最初の楽器を製作するのに、カール・ベヒシュタインは九カ月を要しています。工員や協力者に払うお金がなかったため、ベヒシュタインは、文字どおり自分の二本の手だけですべてを作らなければならなかったのです。ベルリンの宮廷ピアニストであり、シュテルン・コンセルヴァトワールの創立者の一人(他の二人が、ほかならぬシュテルンとマルクスです)であるデオドア・クラーク(1818~1882)は、ベヒシュタインのピアノを最初に弾いた時、あふれんばかりの賞辞をもらしました。ハンス・フォン・ビューローは、これをききつけ非常に興味を持ち、1856年、ベルリンでの自身のリサイタルで新しいこの楽器を使ったのです。ベルリンの批評家は、ビューローを誉めたたえはしたものの、リストの作品はめちゃくちゃであった、と結びました。後に、ベルリン・フィルの指揮者となるこの怒りっぽいピアニストは、この評に対して、『フォイヤー・シュピッツェ』の中の記事で、鋭く反論しています。それによると、ビューローは、リストのロ短調のソナタを十分に披露できたし、また、この曲でベヒシュタインの楽器の持つ優れた特徴も、十分に発揮できたことを強調しています。それは、その「材料」が、決して単なる思いつきや、見せかけのものではないことをほのめかしています。ピアノが半永久的なものである、という見地を作ったということにおいて、このベヒシュタインの楽器は、記録に値するものだったのです。
つづく
次回は
5.《リストの演奏に耐え得るか?》
をお送りします。
向井
注:この内容は1993年発行のベヒシュタイン物語(ユーロピアノ代表取締役 戸塚亮一著)より抜粋しております。なお、この書籍の記載内容は約20年前 当時の情報を元に執筆しておりますので、現在の状況・製品仕様と異なる点も多々あります。予めご理解頂けますようお願い申し上げます。