11.《ビューローはスタインウェイを弾いたが・・・・・》
当時、ヴァグナー、リスト、ブラームスの新ドイツ楽派の間では、楽曲の動機と作曲法についての議論が盛んでありましたが、ピアノ製作者にとっては、もちろん販売という意味での国民の名声を勝ち取ることが努力目標でした。ビューローの手紙にも、既に表されているように、それはヴィーンでは非常に困難なことでした。ベルリンでは、それよりもさらにまた大変な一面があり、ビューロー自身とても心配していました。ベルリンではコンサートは『楽友協会』が音頭をとっており、そしてビューローの趣味ではなかったけれどもスタインウェイのグランドを弾くこととなってしまったのです。それはただちにスタインウェイの評判を高めることになります。1863年のことでした。ビューローは親友カール・ベヒシュタインに、しかたなく『宣戦布告』をせざるをえませんでした。ベヒシュタインのピアノに対して、さらなる尊敬と、当時の流行であった、世紀末のスクリャービンに代表される『色付きのピアノ』といったような特徴に、興味を持っていた上でのこの宣言は、プロシャ新聞に掲載されました。全文を紹介しましょう。
「
弁明 10月31日の『楽友協会』主催の最初のコンサートに、以下に説明するスタインウェイ・アンド・サンズ社(ブラウンシュヴァイク/ニューヨーク)のコンサートグランドを弾くことになりました。このピアノは多くの点で非常にすぐれた楽器で、これを公表することで、どちらかというとむしろ気の短い同業者たちの間で大騒ぎになるであろうことを、私は個人的にではありますが確信しています。今後の影響を考えまして、私は次のような宣言をしなくてはならないと思います。皆様ご承知のように、私はベルリンのプロシャ王国御用達カール・ベヒシュタイン氏の楽器が好みであります。私がこの楽器を選ぶのには確かな訳がありまして、フランスで『オー・デ・コンクー(比類ないもの)』と言われておりますような経験と、いろいろな ものを比較するという特徴的なクラフトマンシップで、このピアノが作られているからなのです。そして既にこのプロシャでは、もう他に追従するものがないくらいになっておりますし、まもなく世界市場においてもその名を轟かすこととなるでしょう。私自身のピアノリサイタルには、必ずこの『色彩のあるピアノ』とでも呼べるようなベヒシュタインが必要でして、これはもちろん私一人だけが思っているのでは決してないと思います。しかし今回、私は自分のピアニストとして10本の指を捨ててしまう程の決意をしたのです。それには相当の覚悟がいりましたが、私はまた、ピアニストを職業としているものにとって、あるピアノばかりにこだわらず、あらゆるピアノを弾いてみなければならないと考えます。今まで私のベヒシュタイ ンに対する信頼は、ただの一度も揺らいだことはありませんでした。そうだからこそアクティブなピアニストとして、技術努力によって得られて、数々の栄光を持つピアノ、それが例えばスタインウェイ氏の手になる楽器なのですが、これを自分の好みを犠牲にしても演奏することは、ひとつの義務であると考えたのです。いうなればこの『スム・クイク(ラテン語)』物事には常に公明正大に対処しなくてはならないということが、今回の私の行動の理由です。しかしこれはあくまで私の本意ではないということをあえていわせていただきます。このようなケースにおいて判断をくだすのは、公平な聴衆の皆様方であると信じております。公衆の面前では、どんなに権威のあるもの、理論的に筋の通っているものでも、その真の価値を問われることでしょう。私は自分の判断の正否をその場に委ねたいと思います。
王室所属宮廷ピアニスト、ハンス・フォン・ビューロー
1863年 ベルリンにて
」
ビューローのベヒシュタイングランド
つづく
次回は
12.《 コンサートホール・ベルリン》
をお届けします
向井
注:この内容は1993年発行のベヒシュタイン物語(ユーロピアノ代表取締役 戸塚亮一著)より抜粋しております。なお、この書籍 の記載内容は約20年前 当時の情報を元に執筆しておりますので、現在の状況・製品仕様と異なる点も多々あります。予めご理解頂けますようお願い申し上げます。