【連載】ベヒシュタイン物語 第二楽章 ベヒシュタイン社クロニクル

14.《専用列車が運行》

1900年のカール・ベヒシュタインの死後、三人の息子、エドゥイン、カール、ヨハンによって会社経営が引き継がれました。1906年に、ヨハンが亡く なった後は、エドゥインとカールの二人のコンビとなっています。特に「ピアノ製作者」としての、たぐいまれなクラフトマンシップの才能を受け継いでいた カールは、楽器製作をその質と製作信念の面から管理をしていきました。そしてエドウィン・ベヒシュタインは、経営面での指揮をとっています。
1901年、ロンドンのウィグモア通りに支店を創設し、550席のベヒシュタイン・コンサートホールを建設しています。エドウィンは、イギリスでの販売 に非常に力をいれていたのです。このロンドン支店から、ベヒシュタインの楽器は、イギリス国内のみならず、イギリス連邦のカナダ、オーストラリア、南アフ リカにおくられました。第一次世界大戦の始まるころには、アップライト、グランド合わせて6万6000台が、このイギリス連邦だけでも販売されておりま す。
一方アメリカ市場では、それほど驚くべき数字はでておりません。それは、アメリカには多くのライヴァル会社があったからなのです。そしてまた、アメリカ の販売店が、大量の販売マージンを要求したことも理由のひとつでしょう。アメリカではヨーロッパとは対照的に、しばしば、100パーセントのマージン、すなわち、仕入価格の倍で販売されておりました。この販売のしかたは、ベヒシュタインにとって、北アメリカ市場でシェアをとるために、大きな障害となってい ました。
ロンドンの支店の創設に続いて、「ルー・フォボー・セント・ホノー」という経済情報誌に紹介されているパリ支店、そして、ペテルブルグにも支店をだして おります。イギリス市場とは別に、ロシア市場も非常に重要でした。コンセルヴァトワールや大学、貴族社会の音楽愛好家の間で、ベヒシュタインは非常に好評 だったのです。何度も何度も専用列車を使って運ばれています。
南アメリカでは、ブエノス・アイレスとリオ・デ・ジャネイロの代理店が成功しています。しかし、本社はあくまでベルリンにあり、そこから動いてはおりま せん。そして、当時このベルリンから世界中の支店・販売店のネットワークにむけて、ベヒシュタイン発行の新聞が届けられております。それには、販売の実績 や、ベヒシュタインのグランドピアノを使ったコンサートを、販売店がレポートしたものが載っていて、販売店の間で話題になっていました。

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ベヒシュタインホール

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現在はWIGMORE HALLとして営業が続けられています。

 

↓こちらでWIGMORE HALLで行われたベヒシュタインを使ったコンサート(pf:Michel Dalberto)の映像を見ることが出来ます。

https://www.youtube.com/watch?t=69&v=BNemRe7F4Wk

つづく

次回は15.《前衛音楽家からの関心》
をお送りします。

向井

 

注:この内容は1993年発行のベヒシュタイン物語(ユーロピアノ代表取締役 戸塚亮一著)より抜粋しております。なお、この書籍の記載内容は約20年前当時の情報を元に執筆しておりますので、現在の状況・製品仕様と異なる点も多々あります。予めご理解頂けますようお願い申し上げます。