ブランドヒストリー

C.BECHSTEIN 伝説は生き続ける

“I was simply very fortunate that God stood next to my workbench.”

CARL BECHSTEIN, 1868

カール・ベヒシュタインは
偉大な音楽家達に、彼らの求めた楽器を作った。
力強い音と繊細なタッチ。

ベヒシュタイン伝説は、特別な境遇から誕生した。創立から約160年後、べヒシュタイン社はいまなお活気に満ちている。チームの献身がこのブランドの生命力となっている。

 

1853年ベルリン。フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・ベヒシュタイン。チューリンゲン州ゴータ出身の楽器職人27歳。
ドイツの政治的混乱の時代に、彼はプロイセンに自分の工場を作った。しかし、19世紀半ばのベルリンは芸術、科学、哲学、文学の中心地として急速に発展していった。カール・ベヒシュタインは、ベルリン、ロンドン、パリにおいてピロー、ペペ、クリーゲルシュタインといった一流メーカーで修業を行った。ベヒシュタインがパリの楽器製作職人セバスチャン・エラールと出会っていたかは定かではないが、べヒシュタインの工場が19世紀末までにはフランスの一流ピアノメーカーを越えてヨーロッパ一のメーカーになったことは確かだ。

カール・ベヒシュタインはつつましく、ベルリンの文化生活に馴染んでいった。そんな国際人は、フランス語を話し、数多くの芸術家達、プロイセンの宮廷ピアノ教師テオドール・クラクなどとつながりを持っていた。ベヒシュタインの革新の一つには、強力なマーケティングツールとしてこうした社交の場での親しいつながりを利用したことにある。

ベヒシュタインの親友に、リストの弟子ハンス・フォン・ビューローがいる。1855年、ビューローは偉大な作曲家に宛てた手紙に、ベルリンは「まともなピアノが完全に欠如している」と書いている。このことは、べヒシュタインをリストの力強い演奏にも耐えうるモダングランドピアノを作ろうと駆り立たせた。ベヒシュタインの最初のコンサートピアノは強健で最新の風貌を備え、1856年に完成された。ビューローはコンサートでこれを弾き、大成功を収めた。

そして1857年、ターニングポイントを迎える。ビューローは、ピアニストにとってと同じくらいピアノにとっても消耗の激しいといわれるリストのピアノソナタを初演した。交響曲的要素をもったこの非常にセンチメンタルな作品は、時代感覚を表し、ピアニストとピアノに最大限度を求めた。しかし、ビューローとベヒシュタインのコンサートグランドはその限界に見事応えた。成功はふたりの絆を固めた。ビューローは音楽界への影響力を強め、数年後、ベルリンフィルの指揮者に任命されることとなる。

ベヒシュタインを囲んで(画像):コジマ、リヒャルト・ワーグナー、フランツ・リスト、ハンス・フォン・ビューロー

 

有名な音楽家達がそのブランドの名声に貢献し、他の競合ブランドに勝るベヒシュタインの優位性を讃えた。ある人は「色彩豊かなピアノ」と讃え、またある人はベヒシュタインを「王室の認めるピアノメーカー」と讃えた。

カール・ベヒシュタインは、当時ピアニストが何を望んでいたかを悟り、新たな音楽的理想に応えるピアノを作ることができた。ビューローは、新たな美学を完璧に具現化しているこの崇高な楽器を鮮やかに称賛している。

19世紀の最も偉大なピアニスト、フランツ・リストは、1860年に最初のベヒシュタインを手に入れる。ベヒシュタイン社の販売元帳には、出荷番号247番に「カぺルマイスター リスト、ワイマール」と記されている。

カール・ベヒシュタインは最先端の技術革新にも挑んだ。例えば1853年、彼は最初のアップライトを製作した。当時ベルリンでは水平弦が主流だったにもかかわらず、ベヒシュタインは高さ120センチの斜行弦を用いた。しかしながら、上々の売行きは彼の決断を確かなものにした。

ベヒシュタインは、ドイツ皇帝だけでなく、数多くの王室や宮廷に納められた。

 

1862年には、ロンドン世界展示会において、地元の有力なライバル達を凌ぎ、ベヒシュタインはいくつものメダルを獲得した。審査員は、次のように述べている。

「ベヒシュタインのピアノの注目すべき点は、新鮮で自由な音色、気持ちよい弾き心地とバランスのとれた音域にある。さらに、それらはどんな力強い演奏にも耐えることができる。」

ドイツに送られた公式レポートにも、このように書かれている。
「プロイセンの王室に任命され、アメリカ、アジア、イギリス、ロシアへも渡ったベヒシュタインは、ロンドンに2台の素晴らしいグランドピアノを送った」

同時に、カール・ベヒシュタインは偉大な芸術家達との友情を深め続けた。1864年、リヒャルト・ワーグナーの誕生日にグランドピアノを送った。毎年祝い物を贈られたフランツ・リストもまた、ピアノメーカー宛に、次のように書いている。

「あなたの楽器に何か言わせてもらうとすれば、ただただ称賛するだけだ。28年間ベヒシュタインを弾き続けているが、その優秀さが衰えることは一度だってなかった。ベヒシュタインを弾いた最高権威者の見解によれば、もはや称賛する必要はない。それは、余計な言葉で、ただ冗長で同じような言葉の反復になるのだから。」

ベヒシュタインが評判を得るにつれ、会社も上向いていった。1860年代初め、ベルリン、ヨハニス通り4番地にオープンした生産工場は、1867年に隣接区を買取り拡張した。英露への輸出ブームや1870年の工場拡大によって、1年間で500台以上のピアノを製造できるまでになった。1867年、カール・ベヒシュタインは672台で100万マルクを超える売上を出し、個人収入では80,000マルク稼いでいた。こうして起業家として成功したにもかかわらず、彼は寛大で、非常に謙虚で、人間的深みにあふれ、いつも人々と友好的な関係を築こうとしていた。第二の生産拠点は1880年、グリューナウアー通りにオープンした。その年、カール・ベヒシュタインは、ベルリンの郊外住宅地、エルクナーのデメリッツ湖岸に別荘を持っていた。手厚いおもてなしで有名な彼は、多くの芸術家達をその田舎に招待した。オイゲン・ダルベールもその一人で、1883年、ベヒシュタインの別荘に滞在中にピアノコンチェルトを作曲した。

1892年、ベルリンにベヒシュタインホールがオープンし、ヘルマン・ヴォルフが芸術監督となった。このホールのデザインは、ベルリンフィルが使うコンサートホールの改築も担当したフランツ・シュヴェヒテンが行った。オープニングコンサートには、アルトン・ルビンシュテイン、ヨーゼフ・ヨアヒムとヨハネス・ブラームスによる弦楽四重奏、そしてもちろんハンス・フォン・ビューローが演奏した。

第3の生産拠点は、クロイツベツクのベルリン市、ライヒェンベルガーストリートに、亡日1900年3月6日から3年前に建てられた。

ベヒシュタイン・ピアノは、裕福な家庭における礎でもあり、リスト、ブラームス、ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフ、バルトーク、ブゾーニといった偉大な芸術家たちは、ベヒシュタイン・ピアノという傑作に自分の礎を築いた。

 

彼の非凡な人生はプロイセンの美徳とキリスト教文明に基づいている。彼はかなりの富を蓄え、従業員が健康でいられるよう父親的な態度で世話をした。彼が死んだとき、ベルリン王位磁器製陶所(KPM)は、月桂樹で囲まれた彼の肖像と伝説的人物「カール・ベヒシュタイン 1826-1900」と装飾されたコーヒーのサービスを提供した。

20世紀に差し掛かる前、べヒシュタイン社はファミリービジネスで世界向けに輸出し、3人の息子達、1859年生まれのエドウィン、1860年生まれのカール、1863年生まれのハンスことヨハネスが経営していた。ベヒシュタイン一家は800人近い従業員を指揮し、1年に3500台を製造していた。1903年、創業50周年の年には年間4500台を作った。

ロンドンのベヒシュタインホールは1901年ウィグモアストリートにオープンした。毎年300回近くコンサートが行われているところだ。このころには、もう大英帝国が輸出のほとんどを占め、ヴィクトリア女王は自ら挿絵を描いて装飾を施した金めっきのルイ15世ピアノを注文した(ベヒシュタイン社はこの有名な作品のレプリカを2012年制作した)。

第一次世界大戦は会社に大きな影響を及ぼすことになる。ロンドンのベヒシュタイン・ホールは没収され、ウィグモアホールに改名され、1903年サントノーレ通りにオープンしたパリの子会社も失った。さらにドイツの敗戦と1919年からのインフレにより従業員と生産の厳しい削減を強いられた。戦前は1100人の従業員で毎年約5000台のピアノを作っていたが、今やピアノは贅沢品でそれを持つ余裕のある人はいなかった。

1923年、インフレが空前のピークに達した時、ベヒシュタインは株式会社になった。数年前兄弟に買収されたエドウィン・べヒシュタインは株主になった。おそらく妻の力もあっただろう。

新たな金融構造にも関わらず、輸出事業は高い関税のもと停滞した。しかし1928年、べヒシュタインはアメリカとの取引に成功した。有名デパートのワナメーカーは、アメリカにおけるベヒシュタインの独占代理店になったし、記者会見付きでイベントを告知したり、ニューヨークの富裕層向けにレセプションを開いたりしていた。

ベヒシュタインピアノは、1883年に1200台のピアノを製造した。
20世紀に入るころには、1100人の従業員の手で一年間に5000台を製造した。

 

1920年代、べヒシュタインのグランドピアノは大西洋航路豪華客船の中で見つかった。1929年にはチッペンデール風のグランド・ピアノがグラーフツェッペリン飛行船に乗った。同年、ワトーの絵画の装飾付き金のピアノがバルセロナ世界フェアに登場した。1920年代は経済問題から大変厳しい時代であったが、当時の偉大な作曲家、ブゾーニやシュナーベル、バックハウス、コルトー、エミール・フォン・ザウアー達は「彼らの」ベヒシュタインに真摯であり続けた。

ベヒシュタイン社は、ヴェルテ・ミニョンというピアノ・ロール装置を使用した「自動演奏ピアノ」、そしてネオ・ベヒシュタイン、あるいはシーメンス・ネルンストという電気グランドピアノを導入し、それらの製造に力を注ぎ続けた。今日のヴァリオ消音システムの前身であるネオ・ベヒシュタインは、1931年に技術センセーションを起こしたが、人気は出なかった。

1932年は、大恐慌やベヒシュタイン一族の仲たがいもあり、特にベルリンで最も由緒ある大通りクアフュルステンダムに新たに構えたショールームをめぐって憂鬱な年だった。さらに、一家の一人がナチスの上層部と親しいつながりがあり、会社がヒトラー占領の恩恵を受けているのではと1933年に噂が広まった。売上帳を見てもその状況が見て取れる。しかしベヒシュタインは1930年代の他のライバルメーカー達と同じにすぎなかった。さらに、ナチスによる迫害、土地略奪、ユダヤ人殺戮は会社の減退を招いた。なぜなら裕福なユダヤ人家庭は、ベヒシュタインの重要な顧客層だったからだ。

第二次世界大戦の空襲により、ベヒシュタインのいくつかの工場も被害を被った。戦後、会社はアメリカの直接統治下に置かれた。彼らには、ドイツの市場をアメリカ製品で支配するという明確な目的があったからだ。ベヒシュタイン社は、1951年にアメリカの統治が終わると経営を再開したが、生産高はあまりにも低いものだった。

1953年、西ベルリンのティタニア・パラストで、バックハウスなどの有名アーティストによる一連のコンサートも交え、100周年を祝った。指揮者のセルジュ・チェリビダッケは翌年自らベヒシュタインのピアノを購入し、熱中した。1957年、ヤマハは自社ホールにベヒシュタインのグランドピアノを納入した。

アメリカのピアノメーカー、ボールドウィン社は1963年、ベヒシュタインの株を買い始め、1970年代半ばには主要株主となった。制限されたピアノメーカーは、壁の向こう側西ドイツへ進出することが大変厳しく、孤立したため、新たな工場はカールスルーエとエシェルブロンに建てられた。

1971年、レナード・バーンスタインはウィーン・フィルとドイツ旅行をし、ラヴェルのピアノ協奏曲を専らベヒシュタインで演奏した。ボレットも、当時このベルリンのブランドを好んで演奏したヴィルトゥオーゾの一人だ。1978年、ベヒシュタイン社は創業125周年記念に際し偉大なアーティストによる一連のコンサートを行った。クリスティアン・ツァハリアス、シューラ・チェルカスキー、ピアノデュオのコンタルスキー兄弟など。

1986年、カール・シュルツェが38歳でこの会社を引き継いだ時、経営は落ち込んでおり、ボールドウィン社がかつて所有していた株も買い上げることとなった。ピアノ製造マイスターとして、シュルツェは、かつて世界を絶賛させたベヒシュタインの名声の再建をめざした。ベヒシュタインは新たなスタートを切ったが、カール・ベヒシュタインが創業した1853年当時より全体の経済状況はずっと冷え込んでいた。

それでもなおシュルツェの再建はすぐに実を結んだ。1987年、売上は前年より400万マルク増加の1400万マルクを記録した。しかし1989年ベルリンの壁崩壊で、さらに過酷な経済の時代に突入した。1990年、世界のピアノ生産が40%落ち込んだが、1997年以降ホフマン・ピアノの生産会社となる南ドイツのオイテルペ社を買い取った。1992年、カール・シュルツェはツィマーマン・ブランドとその工場であるザクセン州にあるザイフェナースドルフの工場を買収した。ツィマーマンはドイツを代表するピアノメーカーだった。

ベヒシュタインは1996年に株式会社になり、数年かかけて工場整備のために1500万ユーロを費やした。1999年、会社の管理部署は、現代的なお店がずらりと並ぶ博物館のようなアーケードの中、ベルリンのシュティルベルクに移った。ショールームとコンサートホール、そしてオフィスは初期のベヒシュタインセンターに作られた。数年後、デュッセルドルフのシュティルベルクに新たなベヒシュタインセンターがオープンし、コンサートでは大勢の聴衆を魅了した。

ザイフェナースドルフの工場では、どんなピアニストをも満足させるべく完璧な楽器を作った。
ここでベヒシュタインは、伝統あるピアノにデジタルピアノの優位性を搭載すべく、ヴァリオ消音システムを開発したのだ。2000年、ベヒシュタイン社の売上は4000万マルクにのぼった。

世紀の変わり目に生まれたプロ・ベヒシュタインモデルはアップライトピアノの新たなスタンダードとなった。それはまさに150年前カールヒシュタインが創業時に開拓したものだった。新モデルは、古典的な建築物の黄金比設計のなかにエレガントさを兼ね備え、その透き通った独特なデザインはジャン・ヌーヴェルやノーマン・フォスター等の偉大な建築家を思わせる。大きくて場所を取るアップライトピアノは、グッドデザイン賞やiFデザイン賞を含む国際的に有名なデザイン賞等を勝ち取った彫刻のようなこの新しいアップライトに道を譲った。

2002年には韓国の楽器メーカー、サミックとの関係を強め、アジアやアメリカで市場のシェアを強めた。サミックはこの歴史あるドイツブランドの名声の恩恵を受けている間は、ベヒシュタイングループの中でも初心者向けのブランドはアジアで優勢のはずだった。しかし、カール・シュルツェと、会社のマーケティングマネージャーの妻キュッパーは、2005年までにサミックが保有するベヒシュタインの株の半分を買い戻した。そして今、その韓国のメーカーはベヒシュタインの株は一切保有していない。

2003年、広くメディアにも取り上げられたベヒシュタイン社創業150周年記念は、ベルリンのフィルハーモニックホール、デュッセルドルフのトーンホール、フランクフルトのアルテ・オーパーなどで、国際的なスターソリストやピアノ・デュオ(デニス・プロシャイエフ、ファジル・サイ、グラウとシュマッハ、アンソニーとジョセフ・パラトレ)による演奏が行われた。3年後、ピアニストや指揮者ウラディーミル・アシュケナージの支援のもと、初のベヒシュタイン国際ピアノコンクールを開催した。

同時に、並はずれたダイナミクスと伝説的な音色を持つコンサートグランドD282は、大成功を収めた。
例えば、ラ・ロック・ダンテロンでの国際ピアノコンクールでは、多くのコンテスタントがベヒシュタインを選んで演奏した。

 

ベヒシュタイングループの数々のモデルは、初心者~中級者向けの W.Hoffmann や Zimmermann ブランドから最高級の C.Bechstein まで、あらゆる対象を網羅している。

2004年、ベヒシュタインはボヘミアと協力し始め、その3年後にはチェコの会社を買収した。工場は整備・拡充され、「C.ベヒシュタイン・ヨーロッパ」の名前で子会社となった。2008年末までには新たなシリーズ、ホフマンを完全生産するようになり、アジア製には決して劣ることのない完全ヨーロッパ製のピアノを作り普及させるという明確な信念を確立していった。

ベヒシュタインは手と耳を満たしてくれます

 

ベヒシュタインの世界への入門として、「W.Hoffmann made by C.Behstein Europe」は1893年ベルリンでの創業にルーツがあることをお話しよう。ホフマンはベヒシュタインの専門技術を駆使してザイフェナースドルフのリサーチセンターにて開発され、最高の構成要素が詰め込まれている。

ツィマーマンブランドはトップクラスのシリーズに位置し、際立った成功を収めた。ツィマーマンのアップライトは、1990年ドイツでもっとも売れたピアノとなった。

ベヒシュタインアカデミーは、プロピアニストや音楽学校からの要求を満たすために生まれたシリーズで、ますますベヒシュタインの売上の重要な位置づけとなっている。

100年以上たった、幾千ものベヒシュタインピアノはいまなお購入者の子孫達に引き継がれ、彼らからの感謝の手紙や写真がそれを証明している。ドイツにあるベヒシュタイン工場は伝統を引き継ぎ、さらに未来へ錬磨し続ける。

ベヒシュタインは、現在ヨーロッパ最大の高級ピアノメーカーである。カール・ベヒシュタインはこの成就を誇りに思うことだろう。

100年以上たった、幾千ものベヒシュタインは
いまなお購入者の子孫達に引き継がれ、彼らからの感謝の手紙や写真がそれを証明している。
ドイツにあるベヒシュタイン工場は伝統を引き継ぎ、さらに未来へ錬磨し続けている。

 

最後に、ベヒシュタインのグランドピアノ、アップライトピアノはシリーズの最高峰で、ピアノ製造における限界に挑戦している。世界中の名ピアニストたちはコンサートのステージで、録音スタジオで、この一級品を演奏することに幸せを感じている。

ベヒシュタインセンターの新設で売上は上昇し、ベヒシュタインが提供するコンサートはたちまちその街の文化生活の大切な一部となった。ベヒシュタインは20世紀の変遷の最中、その名の魅力を保ち続けてきたアジアやアメリカ、西ヨーロッパ、特にロシアやウクライナなど世界の各地で成功を収めている。

2007年、4000台以上のピアノを販売し3500万ユーロ近い売上を出した。サミックとの提携は終わり、アジアやアメリカの市場に直接参入していった。新たな主要株主で、ベルリンに本拠地のあるクーテ株式会社はベヒシュタインの将来の成長潜在力を確信している。新世紀の経済危機にもかかわらず、ベヒシュタインは1900年ごろの全盛期にならぶ年間5000台製造を達成した。

今日多くの競合ブランドがアジアの資本に支配されているにもかかわらず、ベヒシュタインは完全にドイツ株によって成り立っている高級ピアノメーカーである。

2012年には、良く知られているヴィクトリア女王の黄金のピアノのレプリカが、高級モデルラインに新たに加わった。
同時にベヒシュタインは初心者向けのピアノ会社との提携を開始し、ドイツチームによる管理、そして中国市場での販売に向けて動き始めた。

このように、ベヒシュタインは自らの信念に忠実でいる。すぐれた品質と伝統の保持者であるベヒシュタインは、未来に向かってまた歩き始めている。

そう、他とは違う。
それがベヒシュタインなのです!