ブランドヒストリー

C.BECHSTEIN 伝説は生き続ける

“I was simply very fortunate that God stood next to my workbench.”

CARL BECHSTEIN, 1868

カール・ベヒシュタインは
偉大な音楽家達に、彼らの求めた楽器を作った。
力強い音と繊細なタッチ。

ベヒシュタイン伝説は、特別な境遇から誕生した。創立から約160年後、べヒシュタイン社はいまなお活気に満ちている。チームの献身がこのブランドの生命力となっている。

1853年ベルリン。フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・ベヒシュタイン。チューリンゲン州ゴータ出身の楽器職人27歳。
ドイツの政治的混乱の時代に、彼はプロイセンに自分の工場を作った。しかし、19世紀半ばのベルリンは芸術、科学、哲学、文学の中心地として急速に発展していった。カール・ベヒシュタインは、ベルリン、ロンドン、パリにおいてピロー、パペ、クリーゲルシュタインといった一流メーカーで修業を行った。ベヒシュタインがパリの楽器製作職人セバスチャン・エラールと出会っていたかは定かではないが、べヒシュタインの工場が19世紀末までにはフランスの一流ピアノメーカーを越えてヨーロッパ一のメーカーになったことは確かだ。

カール・ベヒシュタインはつつましく、ベルリンの文化生活に馴染んでいった。そんな国際人は、フランス語を話し、数多くの芸術家達、プロイセンの宮廷ピアノ教師テオドール・クラクなどとつながりを持っていた。ベヒシュタインの革新の一つには、強力なマーケティングツールとしてこうした社交の場での親しいつながりを利用したことにある。

ベヒシュタインの親友に、リストの弟子ハンス・フォン・ビューローがいる。1855年、ビューローは偉大な作曲家に宛てた手紙に、ベルリンは「まともなピアノが完全に欠如している」と書いている。このことは、べヒシュタインをリストの力強い演奏にも耐えうるモダングランドピアノを作ろうと駆り立たせた。ベヒシュタインの最初のコンサートピアノは強健で最新の風貌を備え、1856年に完成された。ビューローはコンサートでこれを弾き、大成功を収めた。

そして1857年、ターニングポイントを迎える。ビューローは、ピアニストにとってと同じくらいピアノにとっても消耗の激しいといわれるリストのソナタ ロ短調 を初演した。交響曲的要素をもったこの非常にセンチメンタルな作品は、時代感覚を表し、ピアニストとピアノに最大限度を求めた。しかし、ビューローとベヒシュタインのコンサートグランドはその限界に見事応えた。成功はふたりの絆を固めた。ビューローは音楽界への影響力を強め、数年後、ベルリンフィルの指揮者に任命されることとなる。

ベヒシュタインを囲んで(画像):コジマ、リヒャルト・ワーグナー、フランツ・リスト、ハンス・フォン・ビューロー

 

有名な音楽家達がそのブランドの名声に貢献し、他の競合ブランドに勝るベヒシュタインの優位性を讃えた。ある人は「色彩豊かなピアノ」と讃え、またある人はベヒシュタインを「王室の認めるピアノメーカー」と讃えた。

カール・ベヒシュタインは、当時ピアニストが何を望んでいたかを悟り、新たな音楽的理想に応えるピアノを作ることができた。ビューローは、新たな美学を完璧に具現化しているこの崇高な楽器を鮮やかに称賛している。

19世紀の最も偉大なピアニスト、フランツ・リストは、1860年に最初のベヒシュタインを手に入れる。ベヒシュタイン社の販売元帳には、出荷番号247番に「カぺルマイスター リスト、ワイマール」と記されている。

カール・ベヒシュタインは最先端の技術革新にも挑んだ。例えば1853年、彼は最初のアップライトを製作した。当時ベルリンでは水平弦が主流だったにもかかわらず、ベヒシュタインは高さ120センチの斜行弦を用いた。しかしながら、上々の売行きは彼の決断を確かなものにした。

ベヒシュタインは、ドイツ皇帝だけでなく、数多くの王室や宮廷に納められた。

 

1862年には、ロンドン世界展示会において、地元の有力なライバル達を凌ぎ、ベヒシュタインはいくつものメダルを獲得した。審査員は、次のように述べている。

「ベヒシュタインのピアノの注目すべき点は、新鮮で自由な音色、気持ちよい弾き心地とバランスのとれた音域にある。さらに、それらはどんな力強い演奏にも耐えることができる。」

ドイツに送られた公式レポートにも、このように書かれている。
「プロイセンの王室に任命され、アメリカ、アジア、イギリス、ロシアへも渡ったベヒシュタインは、ロンドンに2台の素晴らしいグランドピアノを送った」

同時に、カール・ベヒシュタインは偉大な芸術家達との友情を深め続けた。1864年、リヒャルト・ワーグナーの誕生日にグランドピアノを送った。毎年祝い物を贈られたフランツ・リストもまた、ピアノメーカー宛に、次のように書いている。

「あなたの楽器に何か言わせてもらうとすれば、ただただ称賛するだけだ。28年間ベヒシュタインを弾き続けているが、その優秀さが衰えることは一度だってなかった。ベヒシュタインを弾いた最高権威者の見解によれば、もはや称賛する必要はない。それは、余計な言葉で、ただ冗長で同じような言葉の反復になるのだから。」

ベヒシュタインが評判を得るにつれ、会社も上向いていった。1860年代初め、ベルリン、ヨハネス通り4番地にオープンした生産工場は、1867年に隣接区を買取り拡張した。英露への輸出ブームや1870年の工場拡大によって、1年間で500台以上のピアノを製造できるまでになった。1867年、カール・ベヒシュタインは672台で100万マルクを超える売上を出し、個人収入では80,000マルク稼いでいた。こうして起業家として成功したにもかかわらず、彼は寛大で、非常に謙虚で、人間的深みにあふれ、いつも人々と友好的な関係を築こうとしていた。第二の生産拠点は1880年、グリューナウアー通りにオープンした。その年、カール・ベヒシュタインは、ベルリンの郊外住宅地、エルクナーのデメリッツ湖岸に別荘を持っていた。手厚いおもてなしで有名な彼は、多くの芸術家達をその田舎に招待した。オイゲン・ダルベールもその一人で、1883年、ベヒシュタインの別荘に滞在中にピアノコンチェルトを作曲した。

1892年、ベルリンにベヒシュタインホールがオープンし、ヘルマン・ヴォルフが芸術監督となった。このホールのデザインは、ベルリンフィルが使うコンサートホールの改築も担当したフランツ・シュヴェヒテンが行った。オープニングコンサートには、アルトン・ルビンシュテイン、ヨーゼフ・ヨアヒムとヨハネス・ブラームスによる弦楽四重奏、そしてもちろんハンス・フォン・ビューローが演奏した。

第3の生産拠点は、クロイツベツクのベルリン市、ライヒェンベルガー通りに、亡日1900年3月6日の3年前に建てられた。

ベヒシュタイン・ピアノは、裕福な家庭における礎でもあり、リスト、ブラームス、ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフ、バルトーク、ブゾーニといった偉大な芸術家たちは、ベヒシュタイン・ピアノという傑作に自分の礎を築いた。

 

彼の非凡な人生はプロイセンの美徳とキリスト教文明に基づいている。彼はかなりの富を蓄え、従業員が健康でいられるよう父親的な態度で世話をした。彼が死んだとき、王立磁器製陶所ベルリン(KPM)は、月桂樹で囲まれた彼の肖像と伝説的人物「カール・ベヒシュタイン 1826-1900」と装飾されたコーヒーのサービスを提供した。

20世紀に差し掛かる前、べヒシュタイン社はファミリービジネスで世界向けに輸出し、3人の息子達、1859年生まれのエドウィン、1860年生まれのカール、1863年生まれのハンスことヨハネスが経営していた。ベヒシュタイン一家は800人近い従業員を指揮し、1年に3500台を製造していた。1903年、創業50周年の年には年間4500台を作った。

ロンドンのベヒシュタインホールは1901年ウィグモアストリートにオープンした。毎年300回近くコンサートが行われているところだ。このころは、大英帝国が輸出のほとんどを占め、ヴィクトリア女王は自ら挿絵を描いて装飾を施した金箔のルイ15世ピアノを注文した(ベヒシュタイン社はこの有名な作品のレプリカを2012年製作した)。

第一次世界大戦は会社に大きな影響を及ぼした。ロンドンのベヒシュタイン・ホールは接収で、ウィグモアホールに改名され、1903年サントノーレ通りにオープンしたパリの子会社も失った。さらにドイツの敗戦と1919年からのインフレにより従業員と生産の厳しい削減を強いられた。戦前は1100人の従業員で毎年約5000台のピアノを作っていたが、今やピアノは贅沢品でそれを持つ余裕のある人はいなかった。

1923年、インフレが空前のピークに達した時、ベヒシュタインは株式会社になった。数年前会社は兄弟に買収されていたが、エドウィン・べヒシュタインは大株主になった。おそらく妻の力もあっただろう。

新たな金融構造にも関わらず、輸出事業は高い関税のもと停滞した。しかし1928年、べヒシュタインはアメリカとの取引に成功した。有名デパートのワナメーカーは、アメリカにおけるベヒシュタインの独占代理店になったし、記者会見付きでイベントを告知したり、ニューヨークの富裕層向けにレセプションを開いたりしていた。

ベヒシュタインピアノは、1883年に1200台のピアノを製造した。
20世紀に入るころには、1100人の従業員の手で一年間に5000台を製造した。

 

1920年代、べヒシュタインのグランドピアノは大西洋航路豪華客船の中でも見ることができた。1929年にはチッペンデール風のグランド・ピアノがグラーフ・ツェッペリン飛行船に乗った。同年、ワトーの絵画の装飾付き金のピアノがバルセロナ世界フェアに登場した。1920年代は経済問題から大変厳しい時代であったが、当時の偉大な作曲家、ブゾーニやシュナーベル、バックハウス、コルトー、エミール・フォン・ザウアー達は「彼らの」ベヒシュタインに真摯であり続けた。

ベヒシュタイン社は、ヴェルテ・ミニョンというピアノ・ロール装置を使用した「自動演奏ピアノ」、そしてネオ・ベヒシュタイン、あるいはシーメンス・ネルンストという電気グランドピアノを導入し、それらの製造に力を注ぎ続けた。今日のヴァリオ消音システムの前身であるネオ・ベヒシュタインは、1931年に技術センセーションを起こしたが、人気は出なかった。

1932年は、大恐慌やベヒシュタイン一族の仲たがいもあり、特にベルリンで最も由緒ある大通りクアフュルステンダムに新たに構えたショールームをめぐって憂鬱な年だった。さらに、一家の一人がナチスの上層部と親しいつながりがあり、会社がヒトラー占領の恩恵を受けているのではと1933年に噂が広まった。売上帳を見てもその状況が見て取れる。しかしベヒシュタインは1930年代の他のライバルメーカー達と同じにすぎなかった。さらに、ナチスによる迫害、土地略奪、ユダヤ人殺戮は会社の減退を招いた。なぜなら裕福なユダヤ人家庭は、ベヒシュタインの重要な顧客層だったからだ。

第二次世界大戦の空襲により、ベヒシュタインのいくつかの工場も被害を被った。戦後、会社はアメリカの直接統治下に置かれた。彼らには、ドイツの市場をアメリカ製品で支配するという明確な目的があったからだ。ベヒシュタイン社は、1951年にアメリカの統治が終わると経営を再開したが、生産高はあまりにも低いものだった。

1953年、西ベルリンのティタニア・パラストで、バックハウスなどの有名アーティストによる一連のコンサートも交え、100周年を祝った。指揮者のセルジュ・チェリビダッケは翌年自らベヒシュタインのピアノを購入し、熱中した。1957年、ヤマハは自社ホールにベヒシュタインのグランドピアノを納入した。

アメリカのピアノメーカー、ボールドウィン社は1963年、ベヒシュタインの株を買い始め、1970年代半ばには主要株主となった。制限されたピアノメーカーは、壁の向こう側西ドイツへ進出することが大変厳しく、孤立したため、新たな工場はカールスルーエとエシェルブロンに建てられた。

1971年、レナード・バーンスタインはウィーン・フィルとドイツ旅行をし、ラヴェルのピアノ協奏曲を専らベヒシュタインで演奏した。ボレットも、当時このベルリンのブランドを好んで演奏したヴィルトゥオーゾの一人だ。1978年、ベヒシュタイン社は創業125周年記念に際し偉大なアーティストによる一連のコンサートを行った。クリスティアン・ツァハリアス、シューラ・チェルカスキー、ピアノデュオのコンタルスキー兄弟など。

1986年、カール・シュルツェが38歳でこの会社を引き継いだ時、経営は落ち込んでおり、ボールドウィン社がかつて所有していた株も買い上げることとなった。ピアノ製造マイスターとして、シュルツェは、かつて世界を絶賛させたベヒシュタインの名声の再建をめざした。ベヒシュタインは新たなスタートを切ったが、カール・ベヒシュタインが創業した1853年当時より全体の経済状況はずっと冷え込んでいた。

それでもなおシュルツェの再建はすぐに実を結んだ。1987年、売上は前年より400万マルク増加の1400万マルクを記録した。しかし1989年ベルリンの壁崩壊で、さらに過酷な経済の時代に突入した。1990年、世界のピアノ生産が40%落ち込んだが、1991年以降ホフマン・ピアノの生産会社となる南ドイツのオイテルペ社を買い取った。1992年、カール・シュルツェはツィマーマン・ブランドとその工場であるザクセン州にあるザイフェナースドルフの工場を買収した。ツィマーマンはドイツを代表するピアノメーカーだった。

ベヒシュタインは1996年に株式会社になり、数年かかけて工場整備のために1500万ユーロを費やした。1999年、会社の管理部門は、現代的なお店がずらりと並ぶ博物館のようなアーケードの中、ベルリンのシュティルベルクに移った。ショールームとコンサートホール、そしてオフィスは初期のベヒシュタインセンターに作られた。数年後、デュッセルドルフのシュティルベルクに新たなベヒシュタインセンターがオープンし、コンサートでは大勢の聴衆を魅了した。

ザイフェナースドルフの工場では、どんなピアニストをも満足させるべく完璧な楽器を作った。
ここでベヒシュタインは、伝統あるピアノにデジタルピアノの優位性を搭載すべく、ヴァリオ消音システムを開発したのだ。2000年、ベヒシュタイン社の売上は4000万マルクにのぼった。

世紀の変わり目に生まれたプロ・ベヒシュタインモデルはアップライトピアノの新たなスタンダードとなった。それはまさに150年前カールヒシュタインが創業時に開拓したものだった。新モデルは、古典的な建築物の黄金比設計のなかにエレガントさを兼ね備え、その透き通った独特なデザインはジャン・ヌーヴェルやノーマン・フォスター等の偉大な建築家を思わせる。大きくて場所を取るアップライトピアノは、グッドデザイン賞やiFデザイン賞を含む国際的に有名なデザイン賞等を勝ち取った彫刻のようなこの新しいアップライトに道を譲った。

2002年には韓国の楽器メーカー、サミックとの関係を強め、アジアやアメリカで市場のシェアを強めた。サミックはこの歴史あるドイツブランドの名声の恩恵を受けている間は、ベヒシュタイングループの中でも初心者向けのブランドはアジアで優勢のはずだった。しかし、カール・シュルツェと、会社のマーケティングマネージャーの妻キュッパーは、2005年までにサミックが保有するベヒシュタインの株の半分を買い戻した。そして今、その韓国のメーカーはベヒシュタインの株は一切保有していない。

2003年、広くメディアにも取り上げられたベヒシュタイン社創業150周年記念は、ベルリンのフィルハーモニーホール、デュッセルドルフのトーンハレ、フランクフルトのアルテ・オーパーなどで、国際的なスターソリストやピアノ・デュオ(デニス・プロシャイエフ、ファジル・サイ、グラウとシュマッハ、アンソニーとジョセフ・パラトレ)による演奏が行われた。3年後、ピアニストや指揮者ウラディーミル・アシュケナージの支援のもと、初のベヒシュタイン国際ピアノコンクールを開催した。

同時に、並はずれたダイナミクスと伝説的な響きを兼ね備えるコンサートグランドD282は、大成功を収めた。
例えば、ラ・ロック・ダンテロンでの国際ピアノフェスティバルでは、多くの出演者がベヒシュタインを選んで演奏した。

チェコ・共和国のフラデツ・クラーロヴェーに位置するC.ベヒシュタイン・ヨーロッパの生産本拠地
欧州の子会社

ベヒシュタイン・チェコは2004年にフラデツ・クラーロヴェーに本社が設立され、2007年にボヘミア社を引き継いだ。その年、新たな生産施設を借り現代化を図り、ドイツ・クオリティ基準に合わせるために製造全体を再構築した。そしてC.ベヒシュタイン・ヨーロッパの名前の下、ベヒシュタインの子会社となった。同時期にW.ホフマンブランドは2008年末にチェコの生産本拠地で再設計され、拡大・統合される。サミックとの契約終了後の目的は明確で、この子会社はヨーロッパ製の楽器のみを提供する目的で運営を開始した。こうして、中堅クラスの優れた楽器と同じくらい優れたクオリティーの新モデルを含むW.ホフマンブランドは、アジアで生産されている強豪メーカーを上回る、決定的なクオリティーの優位性を享受した。

「C.ベヒシュタイン・ヨーロッパ製」のW.ホフマンブランドは、以後ドイツとヨーロッパの伝統に根ざす、ベヒシュタインの世界への玄関口となった。元来W.ホフマンは1893年にベルリンで創設されたブランドで、1953年にラングラウに移転し、1960年代半ばまでに7万台のピアノを生産したが、1977年にオイテルペ社に引き継がれ、1990年に上述したようベヒシュタイングループに加わった。今やすべてのW.ホフマンのアップライトとグランドは、ザイフェナースドルフにある数々の高品質な構成要素を統合する、C.ベヒシュタインのR&D(研究開発室)によって開発される。とりわけ特筆すべきは、全グランドピアノの響板に見ることができる。そしてこれらはヨーロッパの山々で育ったトウヒ材だけで作られる。

ツィマーマンブランドはトップクラスの近くに位置づけられており、さらに驚くべき運命を享受している。共産主義の時代は、すべてのツィマーマンの楽器はザイフェナースドルフで作られて、その手ごろな価格から西ドイツと西ヨーロッパでは有名だった。その間にコストパフォーマンスは向上し、ツィマーマンの部品の多くは今なおザクセンで生産され、現在はベヒシュタインのクオリティーと音の哲学を統合している。この成功したブランド、ツィマーマンブランドは2011年までドイツのベヒシュタイン工場で生産された。

セカンド・ベヒシュタインの製品

ベヒシュタイン・アカデミーは2000年の始めに発表されて以来、ベヒシュタイングループの中でも特別な位置付けにある。このシリーズは音楽学校や音楽専門学校、コンサートホールの新たなニーズに答えるために開発された。こういった機関は、どの先進国においても政府の助成金の削減に影響されている一方、新興国ではそのような機関の設立が進んでいる。ベヒシュタイン・アカデミーはプロフェッショナルな領域においての要求と、集中的な使用においての堅牢さの双方を満たす。例えば、228モデル はこのシリーズの中で最も大きい楽器で、20世紀初頭に中規模のコンサートホールで頻繁に使用されていた8フィートのグランド・ピアノと同サイズになる。このモデルのような楽器は、ソロ、室内楽のピアノ、又、オーケストラのためのほとんどすべての古典派のピアノ協奏曲といったあらゆる形態のピアノ音楽に適している。

21世紀初頭には、カール・ベヒシュタインの名前はC.ベヒシュタインブランド、つまりこれ以上ないドイツのピアノ製造のノウハウを盛り込んだ最高級の楽器という意味に直接結びつけられた。その後数年間、スター級のピアニストたちが、ステージで頻繁に使用できるコンサート用グランドピアノDモデルが発表され、ベヒシュタイン社は会社の新たなコンセプトを示すことに成功した。例えば、ラザー・ベルマンは、ベリルンのシュティールヴェルクでの最後のコンサートでベヒシュタインのDモデルを使用し、とりわけムソルグスキーの“展覧会の絵”の演奏では聴衆に大絶賛された。

最高級クラスのC.ベヒシュタイン・シリーズ全体が革新的に再設計されたわけだが、例えば古典的な8フィートのグランド・ピアノと同じ長さにあたる234cmの新しいCモデルは、はるかに力強い音量が出るようになった。新しい戦略の結果、世界中のスターピアニストたちが、ステージでの演奏、あるいはCDのレコーディングにおいて、C.ベヒシュタインのコンサート・グランドピアノを再び支持している。

ザクセン ザイフェナースドルフのベヒシュタイン工場
新しい貿易の航路

今日すべてのビジネスに言えることだが、現代は物流・流通の複雑な変化に直面している。これが、ベヒシュタイン・センターの拡張展開を始めた理由で、ベルリンとデュッセルドルフのセンターの成功を導いた。これらセンターで行われる、新進ピアニストあるいはスターピアニストたちと企画されたコンサートは、たくさんの音楽ファンを惹きつけ、以後このベヒシュタイン社の会場が、これからの地域の文化生活に大きな役目を果たすようになった。

さらに、ベヒシュタイン社は、音楽大学における一連のコンクールと同様に「ベヒシュタイン・デー」を様々なディーラーと共に主催した。これらのイベントの最初は2007年にバーデン・ヴュルッテンベルクで行われた。さらに、注目に値するものに、《ベヒシュタイン・ニュース》と称する、会社のニュース、ポートレートとジャーナリストのインタビュー、ピアノコンクールのスケジュールに関する情報が、ベヒシュタインファンによって高く評価される雑誌をあげることができる。

アメリカ合衆国はピアノの需要が一般の経済の状況に呼応していない国であり、独自のルールのある市場であることが近年再び証明された。つまり、アメリカに輸出している会社にとって、常に全く意図していないことが起こる可能性がある。にもかかわらず、アメリカにいる多くの人は、伝統と卓越性を備えたブランドに関心を持ち、それゆえにベヒシュタイン社は直接アメリカ市場にピアノを販売しようと決めた。

東ヨーロッパ、ウクライナとロシアでは、「ベヒシュタイン」の名前が高貴な空気をまといながら繰り返し登場していることに、前世紀の政治的な混乱が継続している中にあるにも関わらず、最高経営責任者のカール・シュルツェは着目し、モスクワのチャイコフスキー音楽院のすぐ近くにベヒシュタイン・サロンを2008年、オープンした。

ベヒシュタインのピアノは長期の良い投資対象だが、しばしば修復が必要になり、会社の工房で実施される。そこではドイツのピアノ作りの伝統の中で修復に特化した作業が行われ、時には有名な楽器も取り扱う。

工房のベヒシュタインの技術者たちは以前フランツ・リストらが所有していた3台のグランドピアノを修復している。1台は、マイニンゲンでブラームスによって使用されたもの、もう1台は数十年前に作曲家ヴィルヘルム・フルトヴェングラーに贈られ、今はベヒシュタイン社のものとなったピアノだ。SFBラジオ局が1973年に入手し、長年放置されたEモデルも修復され、若手ピアニストで作家のヨーコ・クローネンベルクがベートーヴェンとシューベルトの最後のソナタを最近このピアノでCD録音した。

ベヒシュタインの工房では年に20台~30台ほどが修復される。中にはそこで30年間働いている技術者もいる。すなわち、とりわけ貴重で豊富な経験を備えていることを象徴している。さらに、その工房では時代物の素材が利用できるため、70年以上前の響板を修復することができた。その響板はベルリン全土の空襲を生き延び、今や伝統的なベヒシュタインの響きを新世紀に響かせている。

シュテファン・フライムート
C.ベヒシュタイン・ピアノ工場株式会社の代表取締役社長
驚くべき成功

2007年、ベヒシュタインは4000台以上のピアノを売り上げ、3000万ユーロ以上の収益を達成した。2008年にサミックとの提携が終了し、ベレニチェ・キュッパーとカール・シュルツェはサミックから株式を引き継ぎ増資し、取締役会は、ベヒシュタインピアノをアジアとアメリカで直接販売することを決定した。同時に新しい大株主でベルリンに拠点を置くクーテ社は、100年の伝統が詰まった事業の将来を、継続し成長させることを保証した。新世紀の深刻な財政危機にもかかわらず、ベヒシュタインは一年に5000台近い楽器を生産する。これは、ちょうど20世紀初頭の黄金期に匹敵する。

2010年にはチョ・シャンハオ率いる上海の流通会社を開設した。彼は初めてアジアの市場にベヒシュタインが現れて以来、ずっとベヒシュタインに憧れていた。翌年はロシアとその他のヨーロッパの国々でとりわけ好調な販売実績を実現した。音楽学校や、同様の機関に運ばれた多くの楽器が、このブランドのまとうオーラの卓越性を強める一方、高級ピアノの変わらぬ高い需要があった。2011年、偉大なピアニストたちがベヒシュタインをレコーディングに選び、この楽器の並外れた価値が認められた。その年末には、ベヒシュタインは初の高級品に特化したドイツのクラブ「マイスタークライス」のメンバーになった。さらに、ベヒシュタインはドイツ・チームの監督のもと、アジアの市場で独占的に販売される、非常に手ごろな価格の楽器の生産において中国のパートナーと協定を始めた。

2012年には、2つの生産ラインにフォーカスした。一方では選び抜かれたクオリティーの材料を使用し職人技の過程で作られるパワフルな音色を備えた傑作「C. Bechstein」ピアノを、もう一方ではドイツ製であり高貴で歌うような音色でその伝統を体現する楽器の「Bechstein」。

スフィンクス、スターリング、ルイ15世:3つのスペシャル・モデル
夢は実現できる

3年間かけて製作されビクトリア女王のもとへ運ばれた、かの有名な金のピアノのレプリカが2013年、会社の160周年記念の際に展示された。数枚の歴史的写真だけをもとに特別に作られたこの卓越した楽器は、この名声ある楽器の再現にあたって、音の伝統に裏打ちされた会社の卓越した専門的ノウハウを実証した。

翌年、ベヒシュタインは銀製品の工場ロッベ&バーキングと提携し、山塊の銀の装飾が施されたモダンピアノであるスターリング・グランドを製作した。

2015年には、ベヒシュタインはさらにスペクタクルなレプリカを製作した。それは、ドレスデン聖母教会の再建に携わった職人とのコラボレーションで、金色の銅の装飾とスフィンクスが施されている贅沢な帝国様式のグランドで、その製造には1800時間費やされた。長い間失われてきた技術に会社が精通していることと、現在では研究開発部門(R&D)ができたおかげで、ベヒシュタインは高品質のレプリカを作ることだけではなく、パイオニアとして新しいモデルを製作する技術においても群を抜いている。

資本をドイツの株主が保持している意味で、ベヒシュタインは今日一流ブランドの最後の工場である一方、競合社の場合アジアの投資家たちが資本の多くを握っている。そのような中、会社の未来を保証するため、ベルリンに拠点をおく伝統的な弊社は対策を講じた。新しい主要株主のシュテファン・フライムートは、ベヒシュタイン社が一世紀半以上に渡り、音楽の至宝と評価された、卓越した音色を持つピアノの製作を維持することを約束した。

このようにベヒシュタイン社は自らに忠実であり続ける。会社はその輝かしい伝統を築き、勇敢に新しい機会に挑戦する未来と向かい合っている。目的は、歴史の変遷に関わらず、古きヨーロッパの響きを生かし続けることである。

このような哲学は、カール・ベヒシュタイン、ハンス・フォン・ビューロー、フランツ・リスト、フェルッチョ・ブゾーニ、アルトゥール・シュナーベル、ウィリアム・バックハウスといった傑出した人物の知恵を反映している。

それはいかなる金銭的な考えをも遥かに超える先見の明と言える。