待望

2020年5月24日(日)

待ちに待ったCDが届きました。音楽に熱い情熱を持ったエネルギー溢れる稲岡千架さんのCDです。

本当はドイツに録音に行った時にいろんな人にこの取り組みについて詳しくご紹介をしたかったんですが、録音エンジニアの小坂浩徳さんの「特別なことなので、詳細を語るのは発売同時で」というお考えがあり、まるで王様の耳はロバの耳” の理髪師のような気持ちで8ヶ月程、詳細な報告を辛抱していました。(ただ、イソップのような話の展開は今回もちろんありません)

とにかく、私にとっても今回の録音の取り組みは、35年以上になる職業経験上、最も心に残る出来事の一つになりました。

初めての経験になったのは、世界的に定評ある録音会場の一つのライツターデル (Reitztadel) という南ドイツのノイマルクトというこじんまりした町にある歴史的なホールでの録音に参加させていただいたことです。

世界の名だたるアーティストも音響特性の良さを高く評価するホールです。

因みに今回の録音の最終日に次の録音を準備に来たのは、バイエルン放送交響楽団のメンバーで編成される室内楽ユニットでした。ライツターデルはバイエルンラジオ放送の録音会場の一つになっているということでした。今回も翌日の収録の為に中継車が来ていました。







稲岡さんはエンジニアの小坂さんと、今回のモーツァルトの録音をするのにふさわしいピアノを持ち込みたいということで事前にドイツに渡り、ベヒシュタインのフルコンサート D-282の試弾を目的に、ベルリンとノイマルクトに比較的近いアウグスブルクの両方のベヒシュタインセンターを訪問されました。

今回の録音に、アウグスブルクに設置してあるC. Bechstein D-282を使用することになり、録音初日というか準備の日にそのピアノを会場に搬入しました。



Reitstadelのステージに上げたピアノの蓋をいつものように開け、いつものように調律を開始しました。

調律をスタートし割り振りと言う1オクターブを4度や5度や3度という調和音程を聞きながら分割する工程がありますが、その時ハーモニーを聴いていると、すべての倍音が天井から降り注いでくるような不思議な感覚を覚え、多くの演奏家がこのホールを高く評価する理由が「ああ、この感覚。。。」と理解できました。

会場全体に豊かな余韻があるにもかかわらず、響きが混沌と混ざってしまわず、いろんな倍音が明確に聞き取れるのです。

ホールの外は石畳で、車両が通ったりするとタイヤが石畳で発生させる音や、ちょうど横の建物をリフォームしていたのですが、その工事の音が木材と漆喰の壁を通して聞こえてきていたので、遮音性は近代的なホールの方が圧倒的に優れているのだと思いますが、建物全体が素晴らしい楽器の共鳴体になっているようでした。



あと今回も、以前八王子の工房コンサートで稲岡さんと末永匡さんや内藤晃さんと実験を繰り返した不等分律いわゆる古典調律を採用することにしました。

倍音の変化が本当によく聞こえるホールで、その調のもつ響きの変化の違いは驚くほどよく聞き取れました。

録音の時ホールの中ですでに感じていましたが、転調をした時の響きの持つ色彩の変化、音域の響きの違い、聴き取りやすい倍音が作り出す抑揚の奥行きは、モーツアルトの楽曲に内包されるポリフォニーの旋律同士の対話が、魅力的に聴き手に届きます。

私は特に、同主調での長調と短調の空気感の変化に魅力を感じ、モーツアルトの決して曖昧ではない調の選択の狙いを想像しています。今回の作品は、不当分律で表現したいという稲岡さんの意図が理解できる作品になったと感じました。

私は、この作品を普段あまりピアノ音楽に触れない人にも、ピアノの勉強をしている子供達にも、アコースティックの表現の素晴らしさを経験してもらうのに聴いていていただきたいなと思いながら、仕上がった CDを視聴させてもらいました。

モーツアルトのピアノ曲がオペラ的だと言われる意味、なぜ多くの人がモーツアルトに魅せられるのかを感じていただきたいです。

雑誌”ぶらあぼ”5月号にも大きく掲載されていましたが、本当はこのCDの発売記念コンサートを5月のCDの発売に合わせ杉並公会堂で行う予定でした。

「コロナ感染症の問題で、無観客で録画を行いインターネットで発信しようかと思っています」

と稲岡さんからの力強い連絡を受けていた矢先、稲岡さんは急性骨髄性白血病で緊急入院になってしまいました。

私自身も悲しい感銘に見舞われた中でCDが発売になりました。幸いなことに、生命の危機は乗り切ったと言うことですが、まだ当分お会いすることができないようです。

コンサートなど劇場での感動を我慢しないとならない生活が続いていますが、​この作品に家で触れていただければ​大変嬉しく存じます。