年が変わるのを五感で感じるため、子供の頃、大晦日に行っていた、鐘撞をここのところすることにしている。
実家のある多治見市には永保寺という臨済宗南禅寺派の寺院がある。実家は、この永保寺を守る寺の一つ徳林院の檀家になるので、法事やお盆や年始の挨拶の度にお伺いする、馴染みのある寺になる。
永保寺にある開山堂は鎌倉時代に建立されたということで、ここの観音堂と共に国宝に指定されている、観光する場所が決して多いとは言えない多治見市の見所の一つになっている。
この永保寺には鐘楼があり、ここで大晦日には除夜の鐘を撞かせてくれる。
先程、”五感” と書いたが、五感とは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚 になる。
大晦日から、正月に感じる感覚で、今、一番多いのは視覚ではないだろうか。
例えば、門松や玄関の正月の飾り、スーパーでのお正月用の品々、初詣に並ぶ人
など、見て感じるものはやたら多い。
そのつぎに多いのは、味覚だと思う。
お雑煮と御屠蘇は、僕はこの時期にしか口に入れないし、おせち料理も、やはり、この時期にしか口に入れないものがある。
残りは、聴覚、触覚、嗅覚になるが、僕の場合、この中でこの時期にしか体験しない触覚、嗅覚に関わるものは、と考えてみると少々難しい。
おせちなどの料理の場合、嗅覚に関わるものがあるが、この時期にしか感じないか?というと少々難があるが、例えば御屠蘇の場合、鼻を抜ける時に感じる香りが、味覚とのコンビネーションで、この時期特有といえば特有かもしれない。
触覚は、私の場合昔はそれなりにあったと思う。
凧揚げは子供の頃、正月にやるものだったが、凧が空高く上がり、凧紐が手に少し食い込むような感覚は、この時しか感じないものだといえばそうだったかもしれない。
あと、凧を作る時に竹を薄く削るわけだが、薄く削った竹を曲げたりする感覚も、この時期ならではだったように思う。硬くなる前のお餅を新聞紙に広げる時に柔らかいお餅に触る感覚、書き初めの筆が半紙を滑る感覚など、思い返すと正月ならでは触覚は確かに有った。
しかし、今はそういったものは無くなってしまった。
そこで、正月体験を充実させる為に。僕が普段から酷使している聴覚の出番が重要な要素になった。
お寺の鐘は、除夜の鐘以外にも時を告げる為に打たれることはあると思うが、僕は普段から頻繁に寺院に行くわけでもないし、寺院の鐘が聞こえるような場所で生活している訳でない。ゆえに僕には、除夜の鐘で聞くお寺の鐘は、年間で唯一の機会と言って良いと思う。
お寺の鐘を撞いたことがある人はお分かりかと思うが、強すぎず、しかし、手首のスナップを最後に効かせ、鐘を打ち付ける木が鐘に長く接触しないような気持ちで打つと、”グゥオ~ン~ア~ン~オァ~ン~”と、耳の真上から頭から腹にまで空気の振動を感じる音が鳴る。
西洋の教会の場合、街全体が石でできていて、教会の中も響くので、鐘そのものの音は日本の鐘と比べると、立ち上がりが早く鋭い感じがする。
しかし、日本のお寺の鐘楼は、お経を上げる複数の和尚さんの声も余韻として残る感じはしない、響の少ない空間になる。そこにぶら下げる鐘は、それなりに説得力あるサウンドを演出しなければならない。よって唸るように鳴る。
煩悩を追い払う意味が除夜の鐘にあるというが、普段否定している野太い響きへの迷いを追い払う意味で、煩悩を消し去る効果も僕にはある。
さて、除夜の鐘の力を借り、年々薄らいでいく年明けの感覚を引っ張り出し、元旦は、今年やるべき事と、今年生起して欲しい事を再イメージしてみた。
本年もよろしくお願いします。