【連載】ベヒシュタイン物語 第4楽章 日本におけるベヒシュタイン

 

34,《日本楽器が作った宣伝パンフ》

 

〈創業者カール・ベヒシュタイン氏〉

氏は一八二八年ドイツ・ゴータに生まれました。音楽的天分の豊かな子供でありましたが、その音楽好きな家庭と工業都市であったゴータの雰囲気は、遂に氏をして当時のピアノに不満を抱き、これが改善と芸術的ピアノの製造を自己の天職とし将又畢生の事業として志すに至らしめました。

ベルリン随一のピアノ製造家であったべラウ氏についてわずかに二年、二二歳の若さで多くの先輩を凌いで支配人に抜擢されました。しかし当時のドイツの斯界はこの若い天才の足を長く国内に止め得ず、氏はその頃最もピアノ工業の発達せる英仏両国の著名な工場を歴遊して、遂に経営法に至る迄ピアノ製造家として知るべきことのすべてを極めて、一八五四年二九歳の時ベルリンに帰りまして、いよいよ独立して抱負の実現に着手しました。果然その処女作である最初の平台ピアノに楽界は驚異の眼をみはりました。それは多分に氏の独創を加味して近代ピアノ完成の端緒となった劃時代的なものでありました。次の最初のコンサート・グランドは、それまで全く英仏ピアノの蹂躙に委せられたドイツの演奏壇上に、ハンス・フォン・ビューローが「ドイツ最善のピアノ」と激賞して自らその独奏会に使用し、それら外国品を遥に凌駕せることを実証して、ここに初めて自国の演奏壇を外国品より奪回するの端を開かしめました。爾来鉄骨および交叉張弦法の完成等ピアノ構造上の革命的大創案を引き続き発表致しましたので、業界は氏をヴァイオリンにおけるストラディヴァリウスに比してその神技を讃美しました。一本の鍵を打ちその音によって構造の全部を速断し、かつて一度も誤らなかったと云うように、まさに稀代の天才でなければ到底企及し難い天下の妙技であります。このように他の多くの工場がその全盛を誇り徒に虚名を擁して栄華を夢見て居る頃に、巴里の一日雇職人に過ぎなかった氏は、業界未曾有のあらゆる記録と壮麗世界に冠絶せる大工場とをその偉業の一大記念碑として一九〇〇年三月七四歳を一期として永き眠に就きました。

 

〈ドイツピアノの製造業の父〉

創業の当初にドイツ楽団を英仏ピアノの蹂躙から救ってドイツ国民に代わって万丈の気を吐いた氏は、ドイツピアノ工業の発達のために全生涯を通じ寝食を忘れて尽瘁しました。まずピアノ製造同業組合も組織して、自らその首脳者になって、品質の向上、販路の開拓を計りました。多額の資金を与えて自己の養成した多くの技術者を独立せしめました。又経済的危機に瀕した多くの同業に、率先して援助の限りを尽しました。今日著名の工場で氏の恩顧を蒙って居るものは頗る多いのであります。

こうしてドイツのピアノ製造業が、現在、品質産額共に世界に覇を唱えるに至ったのは。全く氏の力に負うところで、一八九六年、氏が七〇歳の誕生日の吉日を選んで、ドイツ皇室が氏を王室名誉商事参議官に補し、赤鷲王冠四等勲章を授けられたのを見ましても、氏の功績の如何に偉大なものであったかが分かります。また、しかる栄誉を担ったものは、ピアノ製造業としては氏一人よりございませんでした。

 

つづく

 

次回は34,《日本楽器が作った宣伝パンフ》

〈大音楽家との関係〉

〈伝統的大精神〉

をお送りします。

 

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向井

 

注: この内容は1993年発行のベヒシュタイン物語(ユーロピアノ代表取締役 戸塚亮一著)より抜粋しておりま す。なお、この書籍の記載内容は約20年前当時の情報を元に執筆しておりますので、現在の状況・製品仕様と異なる点も多々あります。予めご理解頂けますよ うお願い申し上げます。