7.《拡大の時代—国際市場へ》
「グランドピアノの年」1856年、ベヒシュタインは工場拡張を行い、自身の安定も手に入れています。ベルリンの近くのストラスブルグのルイーゼ・デーリ ングと結婚したのです。1859年、長男エドウィンが、誕生します。この息子は、後に父親の仕事を強力にサポートすることになります。ピアノ製作者一家ベ ヒシュタインは、その後、カール二世、ハンス、ケーテと引き継がれていきます。1861年、ピローが亡くなった後、その工場だったところは操業をやめてい ます。カール・ベヒシュタインは、「ヨハニス通り」の近く「ツィーゲル通り」に、ジッテンフェルド印刷所の古い建物もろとも、二カ所の土地を買いました。 この建物が、ピアノ工場として生まれ変わることになるのです。しかし煙草の火の不始末から起きた大火により、全焼してしまい、新しい工場が建てられることになります。
ロンドンの工業博覧会で大成功をおさめたベヒシュタインは、世界中にその名をしられることとなりました。イギリスやロシアからは、アップライト、グラン ドのたくさんの注文が入りました。イギリス連邦のオーストラリア、カナダには、ロンドンから「ベヒシュタイン」を供給していきました。1879年にはロン ドンに自身の店を構え、1885年には大きな倉庫をロンドンに作るまでに至っております。数年後にはヨーロッパ、アメリカ、南アメリカ、アジアの主要な文 化の中心地に販売代理店を設けています。このさまざまな世界戦略は、カール・ベヒシュタインが、常にベルリン工場の発展を切望していたからで、結果として はそれは非常に有効にそして有利に向くことになります。
例えば1870年には、古い工場の隣に新たな建物を追加し、1886年から1887年にかけて、技術開発を容易にするための特別なスペースを設けていま す。このベヒシュタインの発展は、第一次世界大戦の始まりまで続き、戦争中の1914年の統計によりますと次のようになっています。
「創業から最初の7年間で、合計176台楽器を製作。そして10年後には、130名の工員を抱え、年間400台を生産。1883年には、1年間で約 1200台を生産。1914年には工員数1100人、生産台数のもっとも多かった1910年には、アップライト、グランド合わせて、何と5000台を製 作」
カール・ベヒシュタインは、亡くなる6年前、1894年に三人の息子、エドウィン、カール、ヨハンに会社をまかせています。1896年、70歳の誕生日に は、イギリスから「通商枢密顧問官」の称号を受けています。そしてベルリンにおいては、これとは別に、世界中から数々の栄誉が贈られています。これはカー ル・ベヒシュタイン個人を称えたものですが、何よりもベヒシュタインのピアノに対して、同じ年に開かれた盛大な工業博覧会で、栄えある金メダルが贈られた ことが、彼にとって何にも換え難い賛辞であったことは言うまでもありません。
数ヶ月の後、カール・ベヒシュタインは、生涯の最もよき理解者、ルイーゼ・ベヒシュタインにみとられながら、永遠の旅路につきました。1900年3月6日、まさしく20世紀の始まり。ベルリンのことでした。
つづく
次回は
《ビューローとの友情》
をお送りします。
向井