【連載】ベヒシュタイン物語 第二楽章 ベヒシュタイン社クロニクル

15.《前衛音楽家からの関心》

戦争の始まった最初のころは、ピアノの生産にはさしたる影響はありませんでしたが、戦後の通貨制度にまで衝撃を与えたインフレは、ベヒシュタインにとっても、非常に苦しい立場に立たされることとなりました。例えば、グランドピアノの価格は、短期間のうちに驚くほど上昇しています。これはすぐにグランドと アップライトの販売どころではなくなりました。ベヒシュタインのグランドピアノは、このインフレで一桁違う価格となっていたのです。
1865年のベヒシュタイン、183センチメートルのグランドは、450ターレル、換算しますと、1300マルクでした。同じ楽器が1912年には、 1650マルクで、それが1919年のはじめには、6200マルクになり、そしてその年の終わりには、何と1万1000マルクにまでなっています。
この、市場の急激な変動にエドウィンとカールの兄弟は、1923年に、株式会社を組織することで、より効果的に対処しました。同時に、カール・ベヒシュ タイン・ジュニア、エリッヒ・クリンカーフース、ハンス・ヨアヒム・グラーフェンシュタインをメンバーに加え、取締役としました。この新しいチームで、戦 後の不況による混乱時期を何とかのりきろうとしました。
その後数年でベヒシュタイン社は、アップライト、グランドあわせて、戦前の年間4000台に近づき、年間3000台という数字を取り戻すことができました。これは、20世紀においても、ベヒシュタインが、世界中で愛されていることに疑いありません。エミール・フォン・ザウアー(1862―1942),ア ルトゥール・シュナーベル(1882―1951),ルドルフ・ゼルキン(1903―1992),ヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969),ヴィ ルヘルム・ケンプ(1895-1991),といった、この時代の偉大なピアニストや、ショー・ビジネスの世界のラルフ・ベナツキーといった顔ぶれが、ベヒ シュタインをコンサートに使用していますし、その前の世代となる、アントン・ルビンシュタイン(1829-1894),カール・タウズィッヒ (1841-1871),オイゲン・ダルベール(1864-1932),フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)からは、ベヒシュタインへの賛辞が寄せられており、これらは、ベヒシュタインの名声に一役買っておるのは明らかです。そして さらに、前衛音楽家の間でも、ベヒシュタインは、非常に興味をもたれています。例えば、ベヒシュタイン社の1925年の記録の中に、イタリアのアヴァン ギャルドな作曲家・アルフレード・カセーラ(1883-1947),からの手紙があります。これによりますと、「9月に、ヴェニスの国際前衛音楽家集団に よる第三回の室内楽フェスティバルが行われました。今年は、以前になく評判で、ヨーロッパじゅうの新聞社が取材に来ていました。エドワード・エアドマン (1896-1958)の最新の五楽章のソナタをアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)が披露し、イゴール・ストラヴィンスキー (1882-1971)が、自身のピアノ・ソナタを演奏しました」となっています。この会のリーダーであるアルフレード・カセーラは、自身がイタリアの最も重要な作曲家で、これは、9月 17日付けのローマでの手紙です。
「ローマにただいま帰って参りまして、まず、ベヒシュタインのグランドを出していただいたことに、感謝の気持ちを述べさせて下さい。この楽器のおかげで、 ヴェネチア・フェスティバルは大成功に終わりました。今後も引き続き、ベヒシュタインが、秀れたアーティストに使われることを望んでやみません。アルフ レード・カセーラ」

 

Alfredo_Casella

アルフレード・カセーラ(カゼッラ)/Alfredo Casella

 

つづく
次回は16.《新しいモデルの開発》
をお送りします。
向井

 

注:この内容は1993年発行のベヒシュタイン物語(ユーロピアノ代表取締役 戸塚亮一著)より抜粋しております。なお、この書籍の記載内容は約20年前当時の情報を元に執筆しておりますので、現在の状況・製品仕様と異なる点も多々あります。予めご理解頂けますようお願い申し上げます。