ピアノ界への提言‐1

2020年9月29日(火)

「西洋と日本の文化の違い」から述べてみます。

先ず、分かり易い「競馬」の話からしましょう。

日本では、「競馬」、といえば、「ギャンブル」というイメージが先行します。ドイツでは、競馬は「文化」です。

ドイツには馬が000頭(数は忘れました)いて、人口との比率で言うと、人間28人に対して、馬、1頭だったと記憶しております。これは人口比で相当高い数字になり、それだけ“ドイツ人は馬が好きだ!”ということになります。

この「馬が好きな人」とは、馬に乗る人、馬を飼っている人、動物として馬が好きな人、馬について語りたい人、などで、こういう人が100人いるとすると、乗馬クラブを訪れる人が、30人、自分の馬を持っている人(通常は、農家や、馬を飼育する厩舎に預けてある。=年間300万円くらいかかる)が3人、乗らないけど馬の話をすることの好きな人やレース(競馬)やスポーツとしての乗馬を見ることが好きな人が100人(つまり、全員)、です。

さて、ドイツに住んでいた私は、日本人の来客があると、すぐ近くの森を案内し、その中の競馬場を散歩します。丁度開催しているレースがあると馬券を買ったりもします。

競馬場と言っても、日本の競馬場とは大分違います。そもそも日本では、場外馬券売り場しか知らない人が多い。ドイツの、ここデユッセルドルフの競馬場は、通常の観覧席から、家屋おろか、遠くのビルさえ見えない、見えるものは森の木です。これが、市内から、車では20分足らずの所です。場外馬券売り場はごく小さいものがデユッセルドルフ駅前にあるだけです。競馬場に来ている層は、ともかく馬のファンです。この森で友人達と馬に乗って、そのまま競馬を見る人もたくさんいます。(森の中にある駐車場に馬を牽引したまま留めておく)。馬券の買い方は、本番レース前に、コースを駆けてきた馬の状態をパドックで見て、仲間同士、“この馬は肉が付きすぎている”とか、“ちょっと毛のつやがよい”とか、“汗のかき具合が悪い、今日は走らないだろう!”とか言いつつ、夫々が自分の馬についての知識と馬を見る目をもとに馬券を買います。

そして、間もなく“パッパカパー!!”でスタート台に。

一日、10-11レースの中には、素人参加のレースもあり、これも、配当賞金の対象になっています。騎手は、自分の馬を持ってレースに参加する12-15歳の子供です。日本の運動会の如く、レース後には、騎手同士、談笑しています。

そういうわけで、馬が好きである事、馬について話すことや乗る事が好きな人、が競馬場に集い、馬券を買い、外れたら、“自分の馬を見る目が無かった!”、という反省になります。当たれば、馬の状態の評価が正しかったことを友人に自慢をします。お金が儲かった、損した、という感覚ではなく、それは二の次です。

要は、本来の“馬が好きだ”という楽しみから発展し、乗馬クラブがあり、みんなで馬を見る目と馬の知識を楽しむレースがあり、スポーツ・競技としての乗馬があり、これらが、歴史的に文化として定着したものが、ヨーロッパの「競馬」です。オリンピックのスポーツとしての乗馬競技は、“馬が好きだ!”という文化構造の頂点であり、「競馬」は、文化としての構成要素の象徴的な一つです。

日本は競馬といえば=ギャンブル。“私は、ギャンブルとは思わない!”という方は、馬が好きな人でしょう。

さて、ピアノの話。

この楽しみとしての「競馬のレース」は、ピアノについて言えば、コンサートやコンクールに当たります。

ピアノは、英語で “play the piano” という如く、ピアノは弾くものではなく遊ぶものなのです。つまりピアノは「遊び道具」です。楽器はすべからく、遊び道具です。

競馬と同じで、ピアノが好きだ、聴くことも、弾くことも、中の構造について=音の響かせ方や材料について興味がある、演奏について評論することが大好きだ、作曲家の性格、曲の生い立ちピアニストと話を楽しみたい、という人が、全部で1000人いたとします。彼ら1000人のうち100人くらいはピアノを自分も弾いてみようかな、という人が出ます。すると、その方たちにピアノを教える人3人がピアノ教師としての職業が成り立ちます。そして、1000人が一人のピアニストのコンサートを聴きに行くので、ピアニストが食べていけます。この、ピアノに関心のある人1000人対100(習う人=生徒)対3(先生)対1(ピアニスト)という構造が、「ヨーロッパのピアノの文化構造」です。

ヨーロッパでピアノ演奏会に来る1000人は、誰もがピアノが好きだから、必然的に聴衆の反応も厳しくなります。

ドイツでは、この構造を支え、バランスを取るような、小学校・高校学校の音楽教育と市営や楽器店や個人の運営する有料の音楽教室(生徒数は先の100人)があり、その上にピアノを教える教師資格の国家試験(3人を輩出)などがあります。そして、演奏家として認められる国家演奏家資格試験(1人を輩出する音楽大学)があります。音楽が好きな人の数(1000人)に対して、ドイツの教育機関から、ピアニストが100人輩出されたのでは、彼らのリサイタルはがらがらになってしまいます。一人で十分なのです。遊ぶ1000人を作ることをおろそかにすると、3人の先生も食べていけなくなります。

ドイツには、この文化構造(1:3:100:1000の法則)が存在し維持されています。

更に、国家資格であるということは、国家が職業として保証するという基本概念があり、その数を、需要と供給という観点からコントロールしています。

さて、日本はどうでしょうか?上野の音楽学校(創立明治20年)の建学の精神のまま、未だにどの音楽大学も「音楽教師又は演奏家の育成機関」=職業音楽家を作るのだ、という大学の使命感から輩出された先生方は、当時のままの、ピアノの演奏方法の習得レッスンの研究、つまり「職業音楽家育成」という志向が強いので、1000人のピアノ・音楽ファンを作る場がありません。「遊び」がなくなってしまった。結局、職業音楽家として育成された「先生・ピアニスト」が食べていけない、という構造になってしまいました。

この日本の教育機関こそ、こぞって「1000人の遊ぶ人」を作ってくれれば、「生徒の100人」が生まれ先生方3人や、ピアニストが職業音楽家として成り立ちます。必然的に、日本のピアノ市場ももっとよくなるのです。

それには、100人の生徒希望者に対する、一番初期の段階で遊び感覚を取り入れることでしょう。たくさんいい音楽を聴くことやリトミックや、ソルフェージュからスタートはよいとして、いきなり、「規則」=「楽譜」を教える、機械的に正確なテクニックをマスターさせようとすると失敗します。自由な発想の「遊び」にとっての最大の障害物は「規則」=ルールですから。

サッカーをしたいという子供に、ボールを蹴る前に試合のルールを教えますか?

先ず、ボールを遠くへ飛ばす練習を工夫する、又は、2人で、相手にボールを取られないようにするにはどうするか、などをして遊びます。ピアノも同じです。

参考書:ホイジンガー著 「ホモ・ルーデンス」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です