The Heritage Wall No.2 -center-

2022年1月9日(日)

 

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Johannes Brahms (ヨハンネス・ブラームス) 1833-1897

ピアノ曲の創作は武骨で慎重な性格そのもののように、1つのジャンルを順番に手中に収めながら、進められていった。まず1850年代の前半に「ソナタ」が、さらに半ばから一連の「変奏曲」が書かれ、1860年代からしばらく「連弾曲」が続く。1876年の「交響曲第1番」の完成以降、次々とオーケストラの大曲が生み出されていく中で、有名な「2つのラプソディ」が書かれた後に、ピアノ曲は長い空白期間を迎える。そして晩年の1892年から翌年にかけて、4つの「小品集」が書かれた。これら最後の0曲の小品は凝縮された形式とそれを包み込む静かな詩情の世界によって、ブラームスの真の傑作群に数えられている。

 

Svjatoslav Richter (スヴャトスラフ・リヒテル)1915-1997

ウクライナ出身ロシアのピアニスト。G.ネイガウスの弟子。説明は不要か。

 

Maurice Ravel (モーリス・ラヴェル)1875-1937

ドビュッシーとともにフランス印象主義音楽の旗手として活躍。発動機技師の父、バスク地方出身の母のもと、スペイン国境に近い村で生まれる。その両親の血と土地の風土がラヴェルの生涯の創造に独特の陰影をつけた。14歳でパリ音楽院入学、様々な芸術ジャンルの偉才との出会いによって、天賦な創造精神をより芳醇なものとさせた。

ピアノ音楽に関しては、初期の作品「グロテスクなセレナード」、初期の成功作「水の戯れ」から、「ピアノ協奏曲ト長調」まで、2台作品を含む数多くの作品を書いた。その特徴的な作風は、オーケストラ作品や室内楽作品にも共通していて、旋律線の輪郭を明確に保ったスタイルをとり、複雑な和声によって響きの豊かな作品を生み出した。近代人の合理的、理知的なテンペラメントと、古典音楽への憧憬を高い次元で融合させて、ドビュッシーとは異なる独自の創造を展開させた。

 

Leonard Bernstein (レナード・バーンスタイン)1918-1990

ユダヤ系アメリカ人の指揮者、作曲家、ピアニスト。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの音楽家。

 

Alexander Scriabin (Skrjabin)(アレクサンドル・スクリャービン)1871-1915

モスクワの貴族の家系に生まれ、幼年音楽学校時代にタネーエフに、モスクワ音楽院ではアレンスキーに師事。ショパンに心酔し、在学時からそれを規範としたピアノ曲を多く作曲。1898年から1903年まで母校で教鞭をとるが、その職に馴染むことはできず、富豪のベリャーノフの支援の下、1903年から09年までフランス、イタリア、ベルギーなどを拠点として活躍、アメリカへの演奏旅行も行う。その間に宗教的神秘主義に傾倒し、「神秘和音」と呼ばれる独奏的な響きを駆使した作品によって独自の作風を確立。晩年には音楽、詩、舞踊、色彩、芳香といった人間の五感全てに訴えかける総合芸術を志向した。ピアノソナタについても当初は多楽章の旧来の様式を踏まえたものから出発し、単一楽章による調性機能を破棄した作風へと移行していく。

 

Hans von Buelow (ハンス・フォン・ビュロー)1830-1894

ドイツのピアニスト、作曲家、指揮者、教育者。ドレスデンに生まれる。リストに師事し、リストのピアノソナタをベヒシュタインで初演、広告塔としても活動。リストの娘コジマと結婚するも後に離婚。ベルリン・フィルハーモニカーの指揮者としても国際的に名声を博した。

 

Richard Strauss (リヒャルト・シュトラウス) 1864-1949

数多くの交響詩とオペラで名を成した「ドイツ最後の巨匠」。当人はピアノの名手で、古典派を信奉していた10歳代後半から20歳代前半までにいくつかのピアノ曲を生み出したが、「ブルレスケ」を最後にピアノ曲の作曲をほとんど行わなくなった。

 

Ferrucio Busoni (フェルッチョ・ブゾーニ)1866-1924

イタリア人の作曲家、ピアニスト、指揮者。オペラの作曲で知られる一方、バッハ、モーツァルト、リストのピアノ曲に傾倒していたブゾーニは彼らのピアノ曲の編曲にも取り組んだ。バッハ作品に置いて独自の演奏法を提唱、新たなバッハ解釈の可能性を提示。

著述家としての顔も持ち、19-20世紀初頭にかけて興った無調性や12音技法に対して鋭い批判精神を向けた著作を遺している。

 

 

 

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