ベヒシュタインのユーザーの方々のピアノに対する想いを綴ったエッセイ集『“私の”ベヒシュタイン物語』をお読みになったという、一人のご婦人から、2021年秋、一本の電話をいただいた。
品のある落ち着いた言葉で「向山」と名乗られたその方は、祖父がベルリン留学中に注文し、日本到着後には山田耕作が試奏したというベヒシュタインを所有していると語られた。もし可能であれば、その由来や歩みをエッセイに加えられないだろうか――
そうしたご相談をきっかけに、私たちは八ヶ岳のご自宅を訪ねることとなった。
政治家で子爵・三島通陽を父に持つ三島謹子さんは、軍人で華族の家系である向山家に嫁いだ。近代日本の礎を築いた名家の系譜に生まれ、その激動の時代とともに人生を歩んできた人物である。その人生の傍らには、常に一台のベヒシュタインがあった。
向山謹子さんは、現在もなお矍鑠として語り続けるが、その人生は近代日本の文化史と深く交錯している。取材の冒頭、彼女は自身の近況について淡々と語り始めた。近年は体調の都合もあり東京へ出ることを控え、地方での生活を中心にしているという。背骨の骨折により長い入院生活を経験し、本来であれば寝たきりになる可能性もあったが、三年をかけて回復した。夜は身体のだるさに苦しみながらも、「もともと長く眠る人間ではない」と笑う姿には、強い生命力がにじむ。
日本輸入初期のベヒシュタインと三島家の系譜
本インタビューの中心となるのは、彼女が所有する一台のベヒシュタイン・ピアノである。
このピアノは、大正10年(1921年)頃、日本に初めて輸入されたベヒシュタインの一台である可能性が高い。向山さんの母の嫁入り道具として、祖父がドイツ留学中に注文したものであった。当時は極めて珍しく、到着までに長い年月を要したという。
向山さんが物心ついた頃には既にそのピアノは家にあり、初めての弾き初めには作曲家の山田耕作が訪れたと、父から聞かされて育った。
彼女の祖父は、ボン大学およびベルリン大学に学んだ松岡均平で、帰国後は学界に身を置いたのち、岩崎小弥太とともに三菱系の経済研究機関の設立にも関わった。また、曽祖父は日本大学初代学長の松岡康毅であり、さらに父方の祖先には「鬼県令」として知られる三島通庸がいる。まさに近代日本の政治・経済・文化を横断する家系であった。
千駄ヶ谷にあった広大な邸宅では、山田耕作をはじめ多くの音楽家や文化人が集い、演奏会や園遊会が頻繁に開かれていた。ヴァイオリニストのジンバリストや舞踊家アンナ・パヴロワといった海外の芸術家も訪れたという。
ベヒシュタインという存在
向山さんにとって、このピアノは単なる楽器ではない。
鍵盤は当時の輸出仕様である丸みを帯びたトロピカル仕様、ペダルは木製という特徴を持つ。音色については「低音がとても美しく、高音は少し緩んでいるかもしれない」と語るが、その響きは長年身体に染み込んだものであり、他のピアノ、とりわけ国産量産メーカーの音には違和感を覚えるという。
彼女は時に、このピアノに「意思」のようなものを感じることがあるとも語る。ある時、ペダルの踏み方を誤った際、楽器が激しく鳴動し、「怒られた」と感じて謝り続けたという。また、特定の音を弾くと背後に人の気配を感じることがあるとも語り、その感覚は単なる錯覚ではなく、長年この楽器と共に生きてきた者の実感として語られる。
音楽教育と演奏体験
若い頃、彼女は東京音楽学校(現・東京藝術大学)の分教場に通った経験を持つ。父の勧めで入学試験を受けたが、本人はさほど熱心ではなく、ベートーヴェンを苦手としていたという。それでも入学後はショパンやバッハを中心に学び、特にショパンには強い愛着を持つ。
印象的なのは、奏楽堂での演奏会でモーツァルトの協奏曲を演奏した経験である。短期間で必死に練習し、本番ではほとんど聴衆が残っていない中、父と恩師の前で演奏した。そのときかけられた「よく勉強しましたね」という言葉の意味を、彼女は今も測りかねている。
戦争とベヒシュタイン
インタビューでは、ベヒシュタイン社そのものの歴史にも話が及ぶ。第二次世界大戦後、同社は連合国の管理下に置かれ、アメリカの政策のもと市場から距離を置かざるを得ない時期があった。その影響は日本にも及び、長い空白の期間が生じた。
このピアノは、もともと姉のもとに設置されていたが、長く弾き手のいない状態が続いていたという。その後、三姉妹の中で唯一ピアノを弾いていた向山さんのもとへと戻ることになった。スタインウェイの技術者の手によって修復が施され、現在の姿へと受け継がれている。
再びピアノとともに
彼女は18歳からおよそ50年にわたり、ピアノから離れていた時期を過ごしている。戦後は、日本を含む東南アジア全域を対象とした中古航空機の販売に携わる米国企業において、社長秘書として長年勤務した。
その後、このベヒシュタインが手元に戻ったことをきっかけに、再び鍵盤に向かうようになったという。
終わりに
この一台のベヒシュタインは、単なる楽器ではなく、一家の歴史そのものであり、日本の近代史とも重なり合う存在である。
向山さんにとってそれは、幼少期の記憶、文化人たちとの交流、戦争と喪失、
そして再生をすべて内包した「生きた記憶装置」なのである。


