トークイベント『大人のピアノ再挑戦がくれるもの。』のレポート第2回をお届けします。第1回では、稲垣えみ子さんが50歳でピアノを再開するまでの経緯と、米津真浩さんとの出会いをご紹介しました。
第2回のテーマは、大人のピアノの「リアル」です。毎日3時間練習しても上手くならない。覚えた曲を翌日には忘れている。発表会は緊張で「地獄絵図」になる。ここまで正直に語られることの少ない現実を、稲垣さんは笑いに変えながら次々と明かしていきます。そして米津さんの応答が意外でした。プロも、同じだというのです。
練習がつらくなっている方、本番の緊張に悩んでいる方にこそ読んでいただきたい回です。
毎日3時間弾いても、上手くならない
稲垣: 大人のピアノには「あるある」があるんですよ。私は今、毎日3時間練習しているんです。異常ですよね(笑)。
でも、もっと驚くのは、1日3時間やっても本当にうまくならないということなんです。
なんでかなと思っていたんですが、最近わかったんです。大人は短期記憶が衰えていくんですよね。練習してちょっと弾けるようになるじゃないですか。でも次の日になると、前の日の記憶がほとんどゼロになっているんです。
だから、なかなか階段を登っていけない。8年ぐらいピアノをやっているんですけど、レパートリーはいつも2曲だけなんです。今やっている曲と、直前にやった曲だけ。
ラジオでクラシックを聴いて「この曲やりたい」と思って調べたら、もうやっていた、なんてこともあるんです(笑)。この苦しみは先生にはわからないでしょうね。
米津: そこまで忘れることはないかなと思いますが、今やっている曲とその前にやった曲ぐらいしか覚えていないのは、僕も同じです。
いつでも覚えている曲って、二十歳ぐらいまでにやった曲なんですよ。音大でもよく言われるんですが、二十五歳までにどれだけの曲をやるかで、いつでも弾けるレパートリーが決まると言われています。
だから小中高生の頃にやった曲はほとんど覚えているんですけど、それ以降にやった曲は本当に覚えていなくて。
コンサートのスケジュールは一年後や二年後に決まるんですけど、昔やったから弾けるだろうと思って曲を提出すると、本番が近づいて弾こうと思ったら全部忘れているんです。一からもう一度読むような感じになっちゃう。
稲垣: 今、希望を持っていいのか絶望していいのかわからないですね(笑)。
米津: みんな同じなんです。でも、いろんな曲をやっていると譜読みが早くなる。楽譜を読むことに慣れてくるから、復活させるのが早くなるんです。
会場の多くを占める大人の学習者にとって、「プロも忘れる」という事実は、意外な励ましになったようでした。
誰の中にも、音楽は流れている
うまくならない話が続いたところで、稲垣さんは「ピアノをやってよかったこと」に話を転じました。演奏を聴いたときの感動が質的に変わったこと。自分が弾いている曲のいろいろな音源を聴き比べる楽しみを知ったこと。そして、こう続けます。
稲垣: どの曲を弾きたいか選ぶ時点で、その曲が好きだから弾きたいわけですよね。好きということは、自分の中に響くものがあるということ。響いていること自体が、自分の中に音楽が流れているということなんです。
よく音楽性は才能だと言う人もいますけど、そんなことはなくて、いろんな音楽を聴いて「これが好き」「いいな」と思っている時点で、それは自分の中に音楽があるということです。
誰の中にもきっと音楽が流れている。それを上手い下手に関係なくやるという、そのことの素晴らしさがあると思いますね。
発表会は「地獄絵図」。だから団結が生まれる
稲垣: ピアノの発表会に一度出たことがあるんです。子どもの部は、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、友達でとても華やかでした。
でも、大人の部になると、みんな帰っちゃうんですよね。客席にいるのは、自分の出番を待つ人だけなんです。
米津: みんな自信がないから、お客さんを呼ばないんですよね。あれは地獄絵図ですよね(笑)。
稲垣: 本当に地獄絵図です。目の前で、自分が想定しうるあらゆる悲劇が展開されているんです。手が震えて弾けないとか、途中でわからなくなって立ち往生とか。
でも先生から「時間が許す限り、他の人の演奏を聴いてください」とメールが来て。聴いてみたら、上手い下手じゃなくて、大の大人が緊張して必死に弾いている音楽は素晴らしいなと思ったんです。
米津: 弾き終わった人たちは、初めましてのメンバー同士で仲良くなるんですよ。
「終わったね」「よかったね」って、苦しみを乗り越えた人たちが仲良くなって、なぜか生徒さん同士で飲みに行ったりしています。
練習は、次の世代へのバトン
レッスンについても、米津さんの本音が飛び出しました。どう見ても酔っ払っている生徒さんがいて、「今日飲んできた?」と聞くと「ビールフェスに行ってきました」とビールをお土産にくれる。全然弾けないけれど、それでも楽しそうに弾いているのがいい——「それでいいんです。僕も楽しいですから」と米津さんは笑います。
練習について、二人の立場は正反対でした。稲垣さんは「練習好き」、米津さんは「練習嫌い」。
稲垣: 弾ける人は練習嫌いなんじゃない?弾けない人は練習好きよ(笑)。練習は一番プレッシャーもないし、一番うまく弾けるし、楽しいよ。
米津: できなかったことができるようになるのは嬉しいけど、辛い。
僕も昨日、演奏時間で三秒くらいの二小節が弾けなくて、その三秒のために三時間弾いていたんだけど、全然無理で。生まれ変わらなきゃ弾けないんじゃないかと思うところ、いまだにめちゃくちゃあるんですよ。
でも、死ぬまでにちょっと弾けるようになれたらいいなと思っています。
そして稲垣さんが、この日もっとも印象的な視点を語りました。
稲垣: 有名な曲って、クラシック音楽の長い歴史の中で、たくさんの作曲家がたくさんの曲を書いてきた中で、今残っているのはすごいひと握りだと思うんです。
その曲を練習していて、どうしても弾けない場所を延々とやっていると、これは私だけじゃなくて、昔から世界中の何万人、何百万人という人が同じところで引っかかって、みんなそこをずっと練習してきたんだなと思うと、ちょっと楽しいんですよね。
名もない一ピアノ学習者がずっと弾いてきたから、この曲が残ってきた。だから、自分がいくら上手じゃなくても、その曲を自分が練習していること自体が、次の世代にこの曲をつなげていく一つのバトンを渡しているんだなと。
よく「発表会をしたいんですか?」と聞かれるんですけど、そうじゃなくて、練習していることそのものに意味があると思っています。
プロも震える。救急車で運ばれたピアニストの緊張克服法
話題は本番の緊張へ。稲垣さんは、クラシックの独奏を「フィギュアスケートに似ている」と表現します。一回のミスがミスを呼んで崩れていく過酷さ。誰も助けてくれず、ノリでごまかすこともできない。「人間の限界を見に行くみたいな感じがあります」。すると米津さんが、自身の壮絶な経験を明かしました。
米津: 僕は昔からめちゃくちゃ上がり症で、ただの発表会で過呼吸になって、3回ほど救急車で運ばれたくらいなんです。
練習だと弾けているのに、本番でうまくいった試しがない。コンサート前は一週間で5、6キロ体重が落ちるし、ご飯も食べられなくなる。
学生の頃は、怖いからひたすら弾いていて、母親が口におにぎりを押し込みに来ていました(笑)。
稲垣: 先生、それどうやって克服したんですか?
米津: 慣れました。これだけ上がり症な人間だから、自分に期待するのはやめようと思ったんですよ。
本番に向けて限界まで努力はするけど、それ以上はもう運だし、崩れてもしょうがない、と自分のハードルを下げることで楽になった。あと、何回も人前で弾くと、その環境が日常になってくる。慣れというところが大きいと思います。
ここで米津さんが挙げたのが、世界の巨匠たちの逸話でした。
米津: マルタ・アルゲリッチという世界トップの巨匠も、いまだに怖くて舞台袖で「私もう弾けない、怖い怖い」と泣いているらしいですよ。それでも、マネージャーさんに背中をポンと押されてステージに出るとピシッとなる。
少し前に亡くなったポリーニも緊張しいで、手が震えて缶ジュースを開けられなかったそうです。
「完璧」というレッテルを貼られると、ミスできないと思って、より苦しくなる。酷ですよ。でも、普通のメンタルで安定してしまうと、普通の演奏しかできないと思うんです。限界ギリギリでやっているからこそ、奇跡の名演みたいなものが生まれるときがあるんじゃないかなと思います。
最後は、米津さんのコンサートを客席で聴いていた稲垣さんのアフロヘアが、斜めの壁で潰れていたのを見て、ステージ上の米津さんの緊張がほぐれた——という逸話で会場が沸き、この日いちばんの笑いに包まれました。
3時間練習しても上手くならない。プロも本番前に曲を忘れる。巨匠も舞台袖で泣いている。この回で語られたのは、上達の魔法ではなく、それでも弾き続ける人たちの姿でした。
「練習していること自体が、次の世代へのバトン」という稲垣さんの言葉は、上手い下手という物差しを一度脇に置かせてくれます。私たちベヒシュタイン・ジャパンも、演奏する人の数だけある「弾く意味」に、楽器で応えていきたいと考えています。
最終回となる第3回では、稲垣さんがなぜW.ホフマンを選んだのか。値段ではなく「木の音」で決めたピアノ選びと、電子ピアノとの付き合い方をお届けします。
▼稲垣さんが2台所有するW.ホフマンについては、こちらでご紹介しています。
https://www.bechstein.co.jp/bechstein/hoffmann
▼稲垣さん所有モデルはこちらです。
W. HOFFMANN T-161


